シン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきました

 エヴァどころか90年代アニメの象徴みたいなキャラがプラグスーツで宇多田ヒカルの歌をバックに田植えって、情報量が交通渋滞起こしてません? サクナヒメで田植えの可能性への理解を広げていなかったら危なかった。サクナヒメ基準だったら、使徒を倒すとネルフが農協になるが両立してしまうし……。

 だが、今までほぼ流れてなかったエヴァの内容をこうして公式が出してきた以上、おそらくネタバレの流れはじわじわと加速していく。というわけで、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観てきました。予定に飽きがあったのと、公式の田植えアクションがなくてもそろそろ情報が表に……と予測していたのもあったので、元々、今日観に行くつもりではありました。

 エヴァと言えば、良し悪しも秩序混沌もすべてを内包した作風。反応や仕草ですら、何らかのネタバレに繋がる可能性がある……ということで、ネタバレ深度の区切りを用意しつついろいろ書き散らしてみます。こういう工夫ができて、いくらでも書けるのはTwitterの強みよね。

 次の章は、どんな感じだったのか。内容には触れないネタバレ深度浅です。

 

 

 終わった後の感想は、エヴァだなあと。いやこれ以外、言いようがなくない? 小難しいところに飽きを持たせない画面や演技の作り方、考察しがいがありそうなキーワードの数々、終わった後の満足感と虚脱感。自分の中の感情のスイッチがほとんどONになる体験。あっちを立てればこっちが立たず、普通こうなるはずなのに、全部立っちゃったね。
 155分という長めの上映時間も、終わってみれば「よくこれでまとめきれた!」という感慨と「終わってしまう……」との寂しさのサンドイッチ。むしろ、155分でよくまとめたよなー。

 次の章は作風や過去作との比較。ちょっとだけ、ネタバレ深度が深くなってます。

 

 

 嵐の如き人智を超えた力や謎に人が翻弄されるのは同じなものの、突如何もかも吹き飛ばす突風に襲われたのが旧劇場版なら、激しい嵐の中で生き抜くことに成功し出来る限りのことをする猶予があったのが新劇場版。両作品を観て、こんな違いを感じました。旧劇場版はもうハッキリ言って、始まった時点で詰みでしたからね。だから次々人はあっさり散っていくし、観客すら置いていく速度で世界が動いていく。新劇場版でも人類は窮地を迎えたものの、新劇場版には空白の十数年の猶予があり、その中で多くの人が生き抜き、自分に出来ることを自覚し、選択と答えに重みを持った。新劇場版の人々、特にシン・エヴァンゲリオン劇場版に漂う精一杯と活力は、やはりシン・ゴジラからのラインなのではと思ったり。

 しかし謎による翻弄とキャラクターというかシンジの困惑。今思い返してみれば、「Q」は「旧」だったねえ。

 次の章は内容にもガンガン触れてます。ネタバレ深度ももはや最高値、鑑賞後に読むことをオススメします。
 
 

 

 トウジやケンスケの今、加持さんがどうなったのか、Qで出たキャラたちの本音や思惑。気になってた部分が、ほとんど解消されてて、この時点で満足でしたよ! つーかうん、Qは旧だったぶん、本当に各キャラの動向は読みにくいわ、謎の大半は秘密だというね! いろいろ事情があるとは言え、8年以上待つのは酷だったね!

 真希波。→真希波……→真希波?→真希波サン!?→真希波ー!!→真希波、お前、真希波!? 真希波・マリ・イラストリアス!?
 当方の上映中の真希波マリへのリアクション、だいたいこんな感じ。応援上映みたいな環境だったら、全力で叫んでツッコミ入れてたと思う。シンエヴァまでシンジにとって名も知らぬ少女だったものの、屋上での出会いにビーストモードでの乱入にシンジ救出と、新劇場版のシンジにとって必要かつ変革となるタイミングでは必ずいたのが真希波マリ。新劇場版の新キャラにして新ヒロイン、ずっと出張るのではなく、要所要所を固めるやり方もあるってことですね。いやまあ、綾波はリスタート、カヲル君も一旦落ち着いた状態、式波はわりきりとそもそも惣流時代のアレがあるよね?ということで、シンジのそこ空いてますよ?状態だったので、真希波エンドはおお……って感じだったんだけど。でも、式波がわりきっていることを確認してから、ちゃんとシンジへの呼び名を変えて距離を詰めにかかるあたり、真希波さん律儀でしたね。

 イスカリオテのマリア。おそらく、もっとも考察が難しい、真希波マリを示す呼称。イスカリオテと言えばイスカリオテのユダ、ならばイスカリオテの意味は裏切り者。だが、真希波は誰を裏切っていたのか。発言者である冬月か、それともゲンドウか、ネルフかヴィレか、シンジかユイか。
 そしてマリア。マリアと言えばキリストの母である聖母マリアを思い出すものの、聖☆おにいさんでもネタにされたように、キリストの復活を目撃しキリストの妻との説もあるマグダラのマリアに、キリストに香油を注いだベタニアのマリアと、マリアの名を持つ女性はたくさんいる。母性、復活、祝福、どのマリアの役割を、それともすべてのマリアの役割を担ったのか。ただマリとマリアをかけただけだったのか。おそらくこの謎は、永遠に推測以上にはいかないのでは。そんな予感があります。

 言いたいことはいろいろあるが、新劇場版をかっさらっていった真希波マリと、新世紀の逸見エリカ化している鈴原サクラ。この二人のウェイトが大きすぎる……鈴原サクラの重い感情! 沢城みゆき! 本筋に関わってるけど、ほどよい距離! この娘目線のシンジって性癖のデパートじゃねえ!? いろいろ重なると、ネタバレ厳禁の空気でもある程度いじってもいいのでは?という雰囲気になってしまう。これすなわち、逸見エリカですよ。鈴原サクラ、エヴァと使徒の戦いに巻き込まれて怪我を負ったとこから始まり、エヴァの救いと被害を味わい続けた、いわゆるウルトラマンの足元の人としての完成度がえらく高いものの、劇中割とそこに収まらない濃さがあって、それどころではない。どうしてこうなった!

 いやねえ、ほんとねえ。本来だったら複数人で見に行って、カラオケボックスででもガンガン語るべきなんですよ。でもコロナ禍の今、それは難しい。いつかコロナが落ち着いたら、存分に酒の席で語ってやるぜ。そんな活力を得る。それすなわち、いい作品であり、いいエンタメであり、いい終わりだった。そういうことですよ。