デッドプール&ウルヴァリン~さらばMCU そしてこんにちは~(ネタバレなし)
実は、デッドプール&ウルヴァリンのジャパンプレミアム(試写)に招待され、ちょっと早く映画を見ることができました。第一作も試写で観ているので、こうして試写でデッドプールを観るのは二回目ですね。いろいろな巡り合わせによるものですが、きっとこの幸運はデッドプールの神様的な何かのお目にかかった結果でしょう。デッドプールの神様的存在に目をかけられてる。嫌だなあ……。
冗談はさて置き、これはすぐにでも伝えなければならないと感じたことがあったので、ひとまずバーっと書いた最速レビューです。タイトルにも書いておきましたが、ネタバレはなしです。
それにしたって、当然ネタバレは駄目というのはわかっているものの、たぶん核心部分のネタバレをした場合はまず俺の正気が疑われるし、よしんばそのネタバレを信じてもらえたとしても、怒りの矛先は俺より「なんでそんなことしたの!?」とディズニーに向かうような。
デッドプール&ウルヴァリンは、そんな映画です。
デッドプール&ウルヴァリンは変な映画だ。
過去の映画に出演したキャラクターが多く出ているし、そもそもデッドプールもウルヴァリンも主演映画が複数あるヒーローである。つまり、ここ「この映画を見る前に◯◯(過去作)を見ていたほうがいい」みたいな話が通りやすい映画のはずだ。
実際、観終わった後に、いやーまさかアイツが出るだなんてなあ!という感慨には浸った。しかしその一方で、過去作を観ておかなければ勿体ないという感情はあまりわいてこなかった。いろいろ細かい話はあるけどさ、なんでもいいから観ようぜ!という感情が先立ったのは事実だ。過去は楽しかったが、過去より今だ。映画を観終わった筆者を襲ってきたのは、過去への愛着と過去との別れ、そんな二つの感情だった。
おそらく大きな理由は二つある。一つ目は、あまりに過去作が膨大かつアトランダムであることだ。律儀かつ忠実にデッドプール&ウルヴァリンに関わる過去作を事前に見ようとした場合、その数は膨大なものとなる。そしてもしその過去作を挙げた場合、それは強烈なネタバレとなってしまう。出てくるキャラのサプライズ性があまりにも強いためだ。なのでおそらく、真面目に過去作を参照しようとした場合、デッドプール&ウルヴァリンを観てから該当する過去作を観るという方が現実的だ。
いわばこれは、スパロボをやってから参戦作品を観る、逆走ルートである。今のようにネット配信が充実していない時代、過去作を見るには地元のレンタルビデオショップに頼らねばならなかった時代のスパロボ作品は、むしろ逆走ルートが普通だった。確かに元の作品を見てから、オールスター作品を見るのが正しいのだろう。しかし、正しさが常に最適ではないというのが、この作品を見れば分かるはずだ。
もう一つの理由は作風とノリだ。主役を務めるデッドプールに引っ張られるように、この作品は今までのMCU、ここ最近のアメコミ映画と比べ、刹那的、こまけえことはいいんだよ! な楽しさがある。作風としては、日本のオールスター映画こと、仮面ライダーの映画にもっとも近い。オールライダーと称される仮面ライダーの映画には昭和、平成、令和のライダーから複数、時には百人近いライダーが出るが、仮面ライダーの映画を楽しむなら過去作をすべて観ておくべきだという声は小さい。ライダー百人の関連作を観るのは、楽しさはさて置き、もはや苦行だというのもあるが、それより何より過去よりも今を楽しみ先を見るべきではと感じさせる勢いの存在が大きい。
かつて、平成ライダー総出演、スピンオフや漫画からも参戦、挙句の果てには伝説のパロディ作こと仮面ノリダーから木梨猛も登場した、仮面ライダージオウ Over Quartzerという作品があった。令和の作品でありながら、テーマは平成という過去であり、前述したように登場した過去作も膨大である。しかしこの作品を見た人の多くは、平成を懐かしみつつも、今のP.A.R.T.Y.をまず楽しんだ。この、過去を使いつつ、まずは今を楽しもう!という一見矛盾しつつ都合の良すぎるノリは、仮面ライダーの発明である。この発明の域に、デッドプール&ウルヴァリンは一作でたどり着いてみせた。
マーベル社長、「スーパーヒーロー疲れ」は「宿題しなければいけないという感覚」と持論 ─ MCUは「全て観る必要はない」
ここ最近のアメコミ映画の不調を象徴する言葉である、スーパーヒーロー疲れ。そんなスーパーヒーロー疲れのことを、マーベル・スタジオの社長であるケヴィン・ファイギは「宿題をやらなければいけないという感覚のような疲れだ」と言った。もはや企業、制作のトップがこう言うほどに、過去作の履修は宿題と化している。熱心なマニアはこの宿題をすでにやって来た人間だし、真面目なファンは宿題をやることを当たり前だと思い、労苦を感じないだろう。しかしながら、世間はマニアと真面目で出来ているわけではない。大抵の人間は宿題をやりたくないし、そんなものをせずに映画に望みたいと思っているのが現実だ。
シリーズを続けることで、宿題が生まれてしまい、試験めいた空気の中、ファンの選別がおこなわれてしまう。これはMCUだけでなく、どんな長寿シリーズも抱えている難題だ。かといって、あまりに過去を軽視すれば、シリーズの連続性が無くなり、シリーズ自体がやせ細っていく。解けない難題であり、解こうとした結果、シリーズが終わってしまう可能性もある。これはもはや、呪いと呼んでもいいだろう。
企業のトップですら、宿題の存在に悩む中、デッドプール&ウルヴァリンが出した答えはあまりに簡単であまりに無茶苦茶だった。
やな宿題はぜーんぶゴミ箱にすてちゃえ!
そうなのだ。宿題を捨てたまま、映画に望んでもいいのだ。毎日が日曜日で誕生日のノリで、映画を楽しんでもいいんだ。大事なのは、ドキドキワクワクである。
ファンは学んでもいいし、学ばなくてもいい。決して学ぶことを否定するわけではないが、まずはファンに選択肢があるべきだ。この類のことはMCUの制作陣も常々言っていたが、なかなか実際に形とならなかった。しかし、デッドプール&ウルヴァリンは作品の在り方で、真面目な不真面目さを証明してみせた。デッドプール&ウルヴァリンは、MCUのヒーロー疲れを緩和するカンフル剤であり、呪いを解く力を持つ作品だ。
ここ最近のMCUと付き合うのは疲れる、次回作を観るかどうかはわからない、それぐらいのテンションで観ても、きっと刺さるものがあるはずだ。いやむしろ、そんな立場の人にこそ観て欲しい映画となっている。この映画には、長い間離れてしまった場所に帰ってやってもいいと思わせる力と、後悔させない楽しみがある。
ここでMCUは一度終わり、新たなMCUが始まる。呪いを解こうとする試みには、こう言ってしまえるほどの価値がある。
デッドプール&ウルヴァリンは変な映画だ。
だが、ここまで考えて、何故変なのかわかった。過去を想いつつ、区切りをつける。それはおそらく、葬儀や葬式と呼ばれる儀式である。
葬式は悲しいし、なかなか笑えるものではない。だが困ったことに、この葬式は楽しい。参加者が全員カーニバル気分でハイテンションだ。司会のデッドプールはテーブルの上でマイクを持ってるし、喪主のウルヴァリンもビール瓶を片手にいびきをかいている。葬式のクライマックスでは、棺桶の中のMCUと20世紀フォックスが「いや死んでねえよ!」とガバッと起き上がってくる。いやでも、フォックスは死んでね!? こうなると、もはや葬式と言うより、葬式コントだ。
そんな、おもしろ愉快なデッドプール&ウルヴァリンに、ぜひとも参列して欲しい。この葬儀は喪服もいらず、礼儀もいらないインフォーマルだ。悼むための篝火に、爆竹を投げ入れ、挙句の果てには花火を打ち上げ大ハッピー。そんな祭りみたいな葬式があっても、ええじゃないか。