日々雑談~5716~

 歩く死亡フラグとして趙括が紹介されていたのを見て、同じ生兵法は大怪我の元IN中国な馬謖と比較。概要はリンク先を読んでもらうとして、二人ともそれぞれの所属組織である趙や蜀が傾く域の失策をしてしまったのが共通点。ただ、趙括はツイートでも言ったように、そもそも趙括が指揮官となったことが敵の戦略。かたや馬謖は自身の選択がミスに繋がったと、敵ですら思いもよらぬ状況だった辺りがねえ。

 ただ、馬謖の登山自体は街亭封鎖の選択肢としては無茶だけど無いわけじゃない。実行の際、水源の確保や麓の砦に兵を置かなかったことで、一気に無理になってしまったわけで。そして即座に街亭を抜けたい状況で、あわてず山頂を包囲した張郃が凄かったというのもポイント。もし張郃が来なかった場合でも、その代わりに来てたのは名将の曹真かチートの司馬懿だったので、結局詰んでたんじゃないかな。趙括が当たった白起もとんでもないけど、魏の(蜀にとっての)ハズレガチャもこれまたひどい。

 両者の違いがあるとしたら、ここよね。お互いの包囲や状況に差があったとはいえ、その場で命をかけて結果的に責任をとったのと、逃げ延びて後に処刑されるのは評価変わるよね。残された趙の兵が趙括以上のひどい死に方となったのは、結果論と言うか白起のせいだし。つーかまあ、撤退の指揮も敗残兵の収容も王平がやってる辺り、馬謖がこの時点で指揮官としての役目を放棄していたのはほぼ間違いないよな……。泣いて馬謖が斬られた理由が、透けて見えるというか。

 生兵法の代表格の二人なものの、細かく見ると、やはり違いがある。また別の視点で見れば、何か別の答えが出るかもしれないわけで。歴史は面白いなあ。