毒に溺れ人を捨てる

 或る友が居た。彼は落ち込んでいた。
 ふと、最近自分が入信した宗教を紹介してみた。彼は半信半疑であった。

 或る友が居た。彼は元気になっていた。
 どうやら私が紹介した宗教が性に合っていたらしい。意外であった。

 或る友が居た。彼は生き生きとした目で私に信仰の成果を語り始めた。
 在家信者でしかない私にとって、彼の成果はとても敵わぬ物であった。多少の先達のしての悔しさはあったものの、私は彼を素直に祝福できた。

 或る友が居た。彼は最近私は巡礼を始めたのです、と言った。
 巡礼等という行為は聞いた事が無い。詳しく聞いて見ると、それは教団に認められた物ではなく、一部の信徒が勝手に信仰心を計る為の行為として行っている物のようであった。
 彼は嬉々として巡礼の過酷さや喜びを語り始めたが、正直私でも半分以下の理解しか出来ぬモノであった。このような苦行を捧げられた神は逆に困るであろう、教団でさえ巡礼者の一派に対し困惑しているようだ。聖地を全て巡り教団に嬉々として報告した巡礼者に与えられた物は、たった一枚の賞状であった。神や教団から見た苦行の価値を暗に語っているような貧しい報酬であったが、巡礼者達は満足げであった。

 或る友が居た。最近忙しく集会に出れない事を詫びる私を彼は許した。彼は既に信者内では知られた存在となっていた。
 最近は教団内にも分派が出来て、しかも分派が力を持ち始めたせいで本流である筈の我が派閥は衰退している。そんな愚痴を彼は私に吐き出し始めた。教団と距離を置いていた私としては、いつの間にやら派閥という概念が出来上がってた事に驚いた。
 その後、彼は会話に理解不明な単語を含め始めた。いったいなんなんだと困惑する私に、彼は不思議そうな顔をしてから教えてくれた。この言葉は君と私が所属する派閥で使っている用語だと。むしろなぜ分からぬのかと、逆に彼が私に尋ねてきた。派閥というものに、入った記憶は全く無い。
 私は言葉を濁し彼を無理やり帰すと、箪笥の奥底に追い遣っていた教典を取り出し、深い井戸に投げ捨てた。

 或る人が居た。彼は私に手紙を送ってきた。手紙の内容は巡礼や教義の自己解釈なのだろう、正直知らぬ単語を並べられても通じぬ。なんとか憶測と推測を交えて内容を理解するのが精一杯であった。
 配達人に聞くと、この手紙は複数人に同じ内容で送られているらしい。他の送付先の人間の名は知っていたが、彼らは教徒でもなんでもない一般人であった。単語の一つも訳せず、ただワケの分からぬであろう彼らに私は同情した。

 或る人が居た。しかし私は、彼とは関係ない道を歩んでいた。教典が沈めてある井戸はずっと蓋をしたままだ。手紙は途絶えなかったものの、はんば黙殺していた。
 とある機会が有り、私はかつて熱心な信者であった経験を生かし教団成立直後の話について語る事となった。あくまで今の教団とは距離を置いて、なおかつ信者を刺激しないようにゆっくり言葉を選びながら語った。
 やはり、彼はそれが気に入らなかった。

 或る人が居た。彼から手紙が届いた。私は読んで愕然とした。
 手紙からプンプンと臭う選民意識が鼻に付き、なおかつ他の派閥の人間を罵倒している。そして論理も破綻しているという、正直まともな人間が書いたのかと疑いたくなる内容であった。
 私に初めて確固たる怒りが宿った。他の派閥の人間はくだらない物しか作っていないと嘲笑しているが、自分はどうなのか。自己満足の巡礼に溺れて、何も作り出していない者に笑う資格があるのか。たとえ本人が何かを作っていたとしても、創作者を笑う資格は誰にも無い。いや、多少なりとも何かを作っていれば、このような侮蔑をする筈もない。作りもせずに、創作者を嘲笑う。なんという傲慢か。

 或る人が居た。私は始めて彼に真摯な返信をした。
 選民意識をまず否定し、他者を笑う資格は誰にも無い事、宗教を紹介した自分を後悔させぬようにと、時間をかけて真剣に綴った。

 或る人が居た。彼から返信が帰ってきた。ただ簡潔に数行、トラブルを避けたい旨が書いてあった。
 私は失望した。今まで好き勝手に語っておいて、いざ真面目に返答されると腰砕けになる。信者であれば冷静かつ的確に反論すべきであるし、狂信者であってもわけの分からぬ理屈を並べ立てるべきだ。それなのに、噛み付き返されたら弱気になり黙すとは。それは人ではなく狗である。ただ忠実に従い、ただ暴れ周り、尻を蹴られると不意に大人しくなる家畜だ。
 このような家畜に誰がしたのか、そもそも私が彼に心の拠り所として宗教を勧めたのが良くなかったのか。私はただ泣いて、人以下となってしまった友に思いを馳せた。

 私という人間が居る。今私は、新たに作られた派閥に所属している。
 教義自体に異論は無いし、距離を置くことはあっても籍は教団に残しておいたのだ。教典は新たに買いなおした。昔のものは後悔とともに井戸の底で眠ったままだ。
 派閥というものは嫌うが、今となっては仕方の無い事かも知れない。幸い、まだこの派閥は出来たばかりで妙なもの達に汚染されていない。まだ希望は捨てずに済むと勝手に願っている。

 或る狗は居ない。自分の成果を完全に認めてくれる人間でないと、手紙も送れぬのであろう。ただ哀れで何も言えない。もはや怒りは掻き消え、忌避と哀れみの感情しか彼には持っていなかった。狗の言葉は知らぬので、正直助かったとも思っている。
 そして私は今悩んでいる。彼が己を取り戻すより何より、彼のような狗の群れが新しい芽をやたらめったらに食い散らかさない事を願う自分は、情が薄いのではないかと。