スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム感想(ネタバレあり)

 スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホームを観てきました。

 コロナ禍によるスケジュールの遅延や変更。入場制限やロックアウトによる興行収入の伸び悩み。配信によるフォローによる映画館との隙間風。ドル箱だった中国市場の鎖国化。順風満帆だったマーベル・シネマティック・ユニバースも、コロナという嵐により、一気に先が見えない状況に。今後のMCUを引っ張っていく存在の一人であったブラックパンサーを演じるチャドウィック・ボーズマンの死もまた、想定外の悲しい出来事でした。

 そんな中、MCUのエースとしてまず重責を担うことになったのがスパイダーマン。スパイダーマンに求められたのは単なるヒットではなく、今後のMCUに属する作品すべてに期待感を与え、この嵐の中でも大丈夫だと言い切れるだけの安定感と数字を持つ、エースとしての役割。いかんせん、まだコロナは猛威を奮っており、どうなるか先が読みきれない部分はありますが、自分の目で観た観客として言い切れるのは、まず間違いなくスパイダーマンはエースたる姿を見せつけてくれたということです。この映画なら間違いない、これだけ全力を見せてくれた映画に憂いはない。そう断言できる作品であり、MCUを薄ぼんやりと包む不安を払拭してくれる映画でした。この映画を作るために、多くの人がどれだけの労力をかけたのか。それがわかるだけに、映画でなく世間が万全でなかったのは「惜しい」の一言です。

 真面目な論評にして、ネタバレ無しの気を使った感想はここまでとして……。
 いやースゲえ映画でしたわ! 後になく先になし、軽く使えない空前絶後の四文字をあっさりお出ししてしまうくらいに!
 というわけで、ここから先はネタバレ全開でいきます。ヒャッハー! 止まらねえぜ!

 

 

 

 

 

 

 スパイダーマンの映画はこれまで順風満帆だったのか? 

 ソニーに映像の権利が渡り、サム・ライミ監督によるスパイダーマンシリーズが始動。主演トビー・マグワイアによりスパイダーマン1~3まで撮られたが、4はサム・ライミの降板などの諸事情によりお蔵入り。トビー・マグワイアも俳優としては2014年の「完全なるチェックメイト」、声優としては2017年の「ボス・ベイビー」が近年における最後の仕事であり、制作スタッフとしての働きが目立つようになっていた。

 スパイダーマン3の公開から5年。設定も世界観も一新した映画アメイジング・スパイダーマンシリーズ開始。監督はマーク・ウェブ、主演はアンドリュー・ガーフィールドとスタッフも俳優も変わったことにより、新たなるスパイダーマンが始まった。シリーズ第四作まで計画していたが、アメイジング・スパイダーマン2の興行的な不振によりシリーズは打ち切り。アメイジング・スパイダーマンのスピンオフとして計画されていたヴェノムなどの一部企画は、アメイジング・スパイダーマンとは別の世界観の作品として制作されることになった。

 マーベル・シネマティック・ユニバースにて、スパイダーマン三度目のスタート。自分以外の多数のヒーローがいる世界観でのスパイダーマンは、シビル・ウォー/キャプテン・アメリカにて初登場。トム・ホランドが演じるスパイダーマンはまず顔見世のゲスト出演の後に単独作品ホーム・カミングにて初主演と、大きな世界観の一員であることを感じさせるスタートとなった。アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー&エンドゲームにて消滅と復活、大戦への参加を経験した後、ファー・フロム・ホームにて二度目の主演。ファー・フロム・ホームのラストにおける全世界への正体バレのシーンが、最新作ノー・ウェイ・ホームのプロローグとなった。

 「お前たちの平成って、醜くないか? まるでデコボコで、石ころだらけの道だ」
 これは、『仮面ライダージオウ Over Quartzer』にて常磐SOUGOが平成ライダーを称したメタまみれの発言ですが、おそらく平成ライダーに負けないデコボコを経験してきたのが映画スパイダーマンの歴史。映像の権利の譲渡に興行的な問題に数度のリブートと、順風満帆とは程遠い過程にして、なんとか前に進んできた結果のデコボコ。だがそんなデコボコだからこそ出せる感動や愛おしさは間違いなくある。それを教えてくれたのが仮面ライダージオウ Over Quartzer、そしてスパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム。

 サム・ライミ版からはグリーンゴブリンやドクター・オクトパスやサンドマン、アメイジング・スパイダーマンからはリザードとエレクトロ。歴代ヴィランが当時の俳優そのままで登場。ならば当然? という伏線は張られていた。でもそれでも、それでもやはり難しいと思っていた。トビー・マグワイアは近年俳優として活動していなかったし、アンドリュー・ガーフィールドが結果的に打ち切りとなったアメイジング・スパイダーマンをどう思っているのかもわからなかった。でもそれでも、一観客でも難しいんだろうなと察してしまう状況で、二人のスパイダーマンは、二人のピーター・パーカーは帰ってきてくれた。だからこそ、まずアンドリュー・ガーフィールドが出た瞬間に劇場はどよめき、トビー・マグワイアの登場で更に揺れた。きっとこれは、今までのままならなさややりきれなさがあったからこその感動でしょう。デコボコには醜さもあり、危うさもある。けれども、デコボコだから生まれるものもある。観客の反応、そして自分の中の衝動が改めて気づかせてくれました。順風満帆だったら「来るんだろうな」と予測してしまった。けれども、デコボコだったから諦めがあった。そんな諦めがあったからこそ、叶った時の感動はひとしおになるわけで。デコボコを呪いとするか強みとするかは、製作者しだい、観客しだいなんですよ。

 

  No Way Homeを直訳するならば、NO(無い) way home(帰り道)=帰り道がない。もう少し詳しく訳すのであれば、「後戻りできない」「あの頃へは帰れない」と言った意味合いでしょうか。結末まで見れば確かにそのとおりどころか、もう直球のネタバレレベルであり、トム・ホランドのピーター・パーカーが迎えた運命のままなのですが、その話は一旦脇においておき、トビーとアンドリュー、別のピーター・パーカーから観たノー・ウェイ・ホームについてちょっと考えてみます。

 前述の通り、シリーズが打ち切りに近い形で終わったのが、サム・ライミ版とアメイジング・スパイダーマン。幻のスパイダーマン4制作のニュースも流れていますが、二人の映画シリーズは現状終わった世界であり、もはや先のない世界。つまりは、物語上では続いていても、現実的な視点では帰れない上に先のない世界。ある意味、彼らもまたノー・ウェイ・ホームな運命に置かれていたわけです。

 だがしかし、帰り道もなく先もない二人のスパイダーマンに映画ノー・ウェイ・ホームで与えられた運命は、復活であり過去をやり直せる機会でした。まずこうして再びスクリーンに登場できたことが、それぞれの世界(ユニバース)が顕在している証明。そして、結果的に救えなかったヴィランたちが目の前にいるという、ありえない機会の存在。グリーンゴブリンもドクター・オクトパスもエレクトロも、殺したかったのでも倒したかったのでもなく救いたかった。サンドマンだってどうにかしてあげたかった。アメイジング・スパイダーマンにて救われたリザードだけは例外なものの、再び手を差し伸べられる機会があれば当然救いたい。おそらくバランス的には、リザードではなくサム・ライミ版のヴェノムや二人のハリー・オズボーンが登場した方がよかったのでしょうが、他の作品との兼ね合いや役者の事情やドラマの膨張と、おそらく難しかったのではないかと。とにかく、帰り道がなくなっていたサム・ライミ版ピーターとアメイジング版ピーターに与えられたのは、帰り道がなくとも歩き続けた結果、与えられた光明であり到達点であったわけです。

 たとえもう失敗であり手遅れという結果を突きつけられていても、親友とその父を奪ったゴブリンフォーミュラの解毒剤を研究し続けていたサム・ライミ版ピーター。スパイダーマン3では叶わなかったサンドマンを元に戻す方法も考案。決戦の際には怒りのままにグリーンゴブリンを殺そうとするMCU版ピーターを止め、ついにノーマン・オズボーンとMCU版ピーターの救済に成功する。

 きっかけは僅かなミスとすれ違いであったのを共に自覚していたアメイジング版ピーターとエレクトロは、奇跡の再開により和解。以前の経験もあり、リザードの鎮静にも成功。そして決戦に巻き込まれ、落下するMJを身を挺して救助。かつて救えなかったグウェン・ステイシーを直接救う機会までは与えられなかったが、MJそしてMCU版ピーターを救うことには成功した。

 帰り道も行き先も消えた二人のピーター・パーカーは、かつての後悔や失敗を取り戻し、これから先へと向かう新たなピーター・パーカーにスパイダーマンでいられる機会を与えた。MCU版ピーター・パーカーはノー・ウェイ・ホームにてあの頃には帰れなくなったわけですが、もしグリーンゴブリンを刺殺、もしくはMJが墜落死していたら、スパイダーマンとしての先をも見失っていたでしょう。それ以前に、おそらくMCU版ピーター・パーカー一人では、ドクター・ストレンジを止めた先、ヴィランの救済までは辿り着けなかった。サム・ライミ版ピーターとアメイジング版ピーターは、自らやり直しつつ、戻れない所に行こうとしていたMCU版ピーターを救った。まったく違う世界の話であり本来順序はないものの、実に見事な先代にして先輩ヒーローのあり方でした。この有り方と経験がまた、映像化もドラマ化もされていないサム・ライミ版やアメイジング版のピーターの映画が終わってからのこれまでをつっついてくるのが心憎いです。

 

 1962年、コミックスで生まれたスパイダーマンはなにが画期的だったのか。それは、ただ一人の若者だったから。大人のヒーローのサイドキックでもなく、チームの一員でもない。大人に頼ることなく、誰にすがることもなく、一筋に戦う男スパイダーマン。

 近年のアニメ、そしてMCUではアベンジャーズの一員であるスパイダーマンですが、元々の本質は孤高でした。別に他のヒーローとの人間関係が悪いわけではないのですが、集団とは付かず離れずのまま数十年。実際、コミックスで正式にアベンジャーズ入りしたのは2000年代になってからであり、それまでは予備メンバーや名誉メンバーと言った扱いでした。これは初期のスパイダーマンが「一人の若者」であったことも理由の一つです。ロビンやバッキーと若手ヒーローはスパイダーマン以前に居たものの、彼らはバットマンやキャプテン・アメリカのサイドキックであり、言ってしまえば保護者付きの子供でした。大人とは関係ないところで生まれ、大人のヴィランやクソ親父ポジションのジェイムソンをきりきり舞いさせるスパイダーマンは、子供ではなく立派な若者。子供扱いされたくない読者層の若者にとっての憧れのヒーロー、親愛なる隣人スパイダーマンとして大ヒットしたわけです。

 では、MCU版のスパイダーマンはどうなのか。シビル・ウォーでの初登場、ホーム・カミングでの活躍。どれも、アイアンマンの庇護の元、保護者付きの子供としての色合いが濃いものでした。インフィニティ・ウォー&エンドゲームへの参戦とアイアンマン死後の映画となるファー・フロム・ホームでスパイダーマンに求められたのは、アイアンマン、そしてトニー・スタークを継げる者としてのあり方でした。単独主演映画のヴィランであるヴァルチャーやミステリオが憎悪を燃やす相手もスパイダーマンではなくアイアンマンと、アイアンマンの影響下から抜け出ることが出来ないのが、これまでのスパイダーマンだったわけです。これらの映画の出来には十分酔いしれたものの、MCUが敷いたレールから脱却できていないのがわかるもどかしさも感じてました。ただ一人のヒーローとしてのサム・ライミ版やアメイジング・スパイダーマンにはなかった窮屈さ。コミックスでアーマーの権威として技術体系すら作ったトニー・スタークとは別のラインで、様々な自分用スーツを作っていたピーター・パーカーが、映画ではその影響下の下にずっと居る。それはそれでいいんだけど、もったいない。それが自分の率直な感想でした。

 そしてノー・ウェイ・ホームのラスト。ピーター・パーカーは叔母も親友も恋人も仲間もすべて失い、新たな自作のスパイダーマンスーツと共に夜のニューヨークへと飛び出す。これぞ、原点回帰。MCUの一員、誰かの庇護の元にあり、敷かれたレールの上にいたスパイダーマンは、ついに自由を手に入れた。正直なところ、この原点回帰が正しいかどうかはわかりません。集団の一員としてのスパイダーマンも、2000年代以降のスパイダーマンのイメージにはむしろ沿っていたし、そもそもこの数年の路線を捨てることが正しいのかどうかはわからない。でも、これまでの映画の実績からして、まずつまらないものは世に出ない。それに、もしコロナ禍のようなやむを得ない事情に巻き込まれ、打ち切りのようなことになったとしても、それが完全な終わりにならないことは二人のピーター・パーカーが証明してくれた。

 帰り道がなくなり、もう戻れなかったとしても、先に行く道が完全に途絶えることはない。ノー・ウェイ・ホームという映画にあったのは、もう元には戻れない現実と、完全に道が途絶えることはない希望。スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホームは様々な困難を背負いつつも先に進み続けたスパイダーマンの映画であり、ピーター・パーカーそのものの物語であった。そう結論づけてしまって、いいのではないでしょうか。

 ああ、いい映画だったなあ!