海を覗くか 陸で暮らすか
「幽霊が見えるかって? 見えない。っていうか、見たくないよ」
ある日僕に「姉さんは霊って見えるの?」と聞かれた姉さんは、そう言って、ぷいっと横を向いた。その話は、ここで終わった。
何故その番組を見ていたのかは、覚えていない。たぶん、テレビを付けたら、そのチャンネルに偶然合わさっていたからだろう。つまり、暇を潰すため、なんでもない。
テレビでは、夏恒例の怖い話特集みたいなものをやっていた。背筋が冷えるほど怖いなら、もっと暑い時期にやってくれればいいのに、どうしてこう毎年、夏の終わり、秋の涼しさが見える時期に放映するのだろうか。
『いますよ。そこに。じーっと、女の子が冷たい目で見ています』
霊が見えるという霊能者が思わせぶりなことを言って、スタジオが悲鳴や感嘆に包まれる。音量を消して見れば、思わせぶりなオッサンが何も無いところを指さして、何故かスタジオに多数の驚き顔という、シュールすぎる番組になる。ひょっとしてそちらの方が、面白いのかもしれない。僕は、リモコンにある、消音のボタンを押そうとした。
「ん? 面白いところなのに、チャンネル変えるの?」
いつの間にか、居間に来ていた姉さんが、やけにニコニコ、上機嫌で腰掛ける。片手にビール、口にはさきイカ。ああ、この人は、見事に酔っている。
「女の子の霊がいるって言ってもねえ。この人にしか見えてない、一人が見えていると言い張っているだけじゃない。質の悪い、パントマイムみたいだ。笑えるねえ」
ケラケラと笑う姉さん。この人、どんだけ飲んだんだと、ゴミ箱を確認する。ゴミ箱は、軽く潰された空き缶で詰まっていた。貰い物だと言って、ビール缶満載のダンボールを抱えて帰ってきた時点で、この展開を予測しておくべきだった。僕の迂闊だ。
「だいたい、本当にまるっと全てみえるんなら、霊能者なんかやるわけない」
どの宗教のやり方にも見えない除霊を霊能者が始めたのを見て、姉さんは怖気を吐き出すように、呟いた。
「見えるから、霊能者をやるんじゃないのかよ」
「んふふ。アンタは、わかってない。わかってないよ。じゃあ、霊が見えるということを説明してあげましょうか」
うわあ、すごく酔ってる。姉さんはニコニコしたまま、手を伸ばすと横に大きく広げた。
「想像しなさい。広い海を、アンタは今、海岸で海を望んでいる。青く深く、どこまでも続く海を」
ああ、さっきの手を広げる仕草は、水平線をアピールしたかったのか。
「目を凝らすと、魚群が見える。時折、トビウオがぱちゃぱちゃ飛んでたり。実際目にすると、キレイよね、トビウオって」
「あの。それは霊じゃなくて、魚の見方じゃないかなあ……」
霊能者の話が、漁師の話にスライドしようとしている。
「だから、アンタは駄目なのよ」
酔っぱらいに駄目だしされるという、屈辱。
「あくまで喩えよ、たーとーえ。霊が見えるっていうのは、コレね。魚群を水上から望むみたいな。ああ、なんかあっちの方に魚がいるっぽいなー。霊感が鋭いって人は、だいたいこんな感じじゃないかなあ」
視覚で見ているというより、感覚で存在を察しているといったところか。でも、それだと。
「そんなに抽象的で、見えてるって言っていいの?」
それは見ているのではなく、感じているということじゃあないのか。
「いやあ。これでいいのよ。これで、十分なのよ。どっちにいるか分かるのなら、双眼鏡で魚群の方を見ればいいだけじゃない。なんなら、船で近づいてみればいい。感覚的に察する事ができるならば、あとは見える努力をすればいいだけなんだから」
「双眼鏡や船で近づくっていうのは、どういう意味?」
「しかるべき道具を使い、注視しろ。虎穴に入らずんば虎子を得ず、自らヤバいと思った場所に足を踏み入れろ。こんな感じね。この喩えのまま行くなら、霊能者は漁師? 一応ほら、除霊なんてやってるし」
まあ、そんなところだろう。しかしまだ、疑問は残る。
「もし霊能者が漁師だったとしたら、魚群を察知できるって、凄い才能じゃない? 才能を活かそうとするのは、当然だと思うよ」
世の中には魚群レーダという物がある。レーダーなんて無い時代、漁師は勘と経験で魚のあたりをつけ、漁を行っていた。その勘と経験に似たような物を持っているとしたら、霊が見えることを生業に結びつけても、何ら不思議はない。
「あー……ゴメン、ゴメン。ちょっと例えが悪い。いや、これでいいのか、とりあえず、目を閉じて。海の情景を想像して。船の上で一人、たゆたう波に身を任せている。そんな光景を」
「なんか、不安になる光景だなあ」
「あー!もう! 豪華客船でもイージス艦でも、なんでもいいから想像しなさい!」
キケン、ヨッパライサワルベカラズ。豪華客船やイージス艦と言われても、乗ったことのないものを想像できるはずもなく。第一に思いついて想像したのが、スワンボートというのが悲しい。足こぎ式で、池に浮いているような。こんなので海に出るなんて、狂気の沙汰だと言われるような船、というかボートだ。
「思い浮かべたわね。じゃあ、このまま私の話を聞きなさい。想像力だけを高めて、耳だけに意識を集中するのよ」
先程からうっすらと思っていはいたが。今日の姉さんは、口調が少し違った。
波の上、船の上には自分一人。
ゆっくりと、船から軽く身を乗り出し、海を覗き込む。
船の脇をはしる、魚の影。そんな魚を釣ろうと、釣竿を探すうちに魚は消えてしまっていた。
次に来たのは、小魚の群れ。一気に捕まえようと網を伸ばすが、網は間に合わず、魚は逃げてしまった。
今日は何も上手くいかない。そう思って、船を岸に戻そうとする。幸い波も静かで、特に困難もなく陸地に戻ることが出来た。
それでは、質問をするわね
あなたが見たのは、本当に魚の影だったの? 影だけを見て、あなたは何故魚だと思い込んだの? ひょっとしたら、それは手だったかもしれない。水面下で、船の上に居る貴方を狙う腕。釣竿を伸ばされたら、魚のふりをして貴方を引きずり込もうとしていたのでは?
あなたが見たのは、本当に小魚の群れだったの? ひょっとしたら、その魚は一つ目で尾ひれも背びれもない、見たこともないような、単純で禍々しい生き物だったのかも。もし、本当に小魚の群れだったとしても、彼らは何故あれだけ早く泳いでいたの? 必死に見えなかった? ただ天敵に狙われただけとは思えない必死さに。
あなたは何故安全に陸地に戻れたの? もしかしたら、深い海の底から、狙っている大魚がいたかもしれない。顎を大きく開け、船ごと飲み込んでしまうような大魚が。そういえば、波に紛れて人の頭がぷかぷかと浮いていなかった? 腐り落ちそうな目で、船をじいっと見ていなかった?
最後に、陸地に戻ったあなたは海を見た? あなたのことを、みんなが見ていることに。恨めしそうに、中には手招きしているのもいるわよ。今度は、誘いに乗ってあげてもいいんじゃないかしら? だって、あれだけ熱心に誘ってくれてるんですものね。
目を開ける前に、冷や汗を拭った。どろりとした嫌な汗が、手にまとわりついている。
「うん。我が弟は想像力が巧みなようだ。きっちり、嫌な情景が想像できれば、そうなる。不安やおどろおどろしさ、そういうモノを見れたかい?」
口調をまるっきり変えて、人を驚かせてくれちゃって。まるで途中、違う人間に色々語られているようだった。酒と雰囲気のせいか。
「本当に霊が見えるというのは、水を透かして、海の底まで見えるようなことを言うのよ。禍々しい海の底、舌なめずりして獲物を狙う、見たこともない生き物が水の底には生きている。ハッキリ言って、人食いザメなんて勝負にならないわよ。あんな、ヒレを水面に出して、狙うことをアピールしている生き物なんて、勝負にならないよ」
いやあ……あんなに鮫の自己アピールが激しいのは、映画の中だけじゃないかな。
「まあ、それはそれとして。本当に霊が見える、感覚だけでなく、目で見て実感できるとしたら。絶対私なら海に行かないけどねー。安全な、陸地で余生を過ごす。漁師になろうだなんて思わない。最新鋭の漁船でも軍艦でも、沈む時は沈むしね」
姉さんは空き缶を握りつぶすと、ゴミ箱に投げた。バスケのフリースローのように、華麗な軌道を描いた空き缶は、ゴミ箱の縁に落ちて床に落下した。
仕方ないなと、僕は姉さんに背を向け、空き缶を拾ってゴミ箱に捨てた。
「もし、中途半端に海の下が見えていたら、逆に慌てて、陸には帰ってこれなかったかも」
目をつむっていた時の声が、再び聞こえてきた。しかしおかしい。今、耳をつまんで囁かれたような位置から聞こえてきたような。姉さんとは多少の距離があるし、だいいち、目を開けている現在、ここまでねっとりと聞こえるものかね。
バッと後ろを振り向く。残念ながら、僕の期待を裏切り、姉さんはいつの間にか高いびきをかいて寝ていた。
「もし、ここであなたがわたしを見ようとしたら、どうなるのかしら?」
姉さんに似ながらも、根本的な何かが違う声。何処からともなく聞こえてくる声に対して、僕は何も出来なかった。下手に動くとキケンだ、下手に覗き込むのは避けるべきだ。覗き込んでしまったものの末路らしきものは、つけっぱなしのTV、流れているニュースが証明してくれていた。
「ふうむ。あの霊能者が、昨晩自殺ね。しかし、一度撮影した場所に戻って、わざわざ首を括るだなんて。撮影の時に見えてたって言う、少女の霊にでも呼ばれたのかな」
硬直しきったまま朝を迎え、憔悴しきった僕とは違い、さわやかな朝を迎えた姉さんは、食パンを焼きながら朝のニュースを見ていた。
しかし、昨晩のアレはなんだったのだろうか。初め語っていたのは、間違いなく姉さんだった。目をつむっていても、それぐらいは分かる。
いきなりしゃしゃり出てきたあの声は、何だったのか。霊のたぐいか、それとも僕の恐怖心が呼び覚ました幻聴か。今となっては分からない、分かりたくもない。
「幽霊なんて見たくもない」
思わず口から出る言葉。僕に、水面を覗き込み、波間を中止する勇気が無いことは、一晩かけて証明された。
「その通りだ。なんでいきなりそんな事を言ったのか知らないけど、その通りだ、我が弟よ!」
ニュースは既に、中国から動物園にやってきた、ホワイトパンダの雌の話へと移行していた。昨晩からの嫌な気分が吹き飛んでくれる、白黒ハッキリとしたニュースであった。