2025年7月6日
/ 最終更新日 : 2025年7月6日
fujii
日々雑談
映画スーパーマンが来週公開だけど、果たしてどんな代物になっているものか。ジェームズ・ガン監督といえば、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにスーサイド・スクワッドと、マイナーだったり新人だったり歴史の彼方に埋もれていた、伸びしろのあるキャラを復活させることで評価実績人気を積み重ねてきた人。そんな再生工場気質の監督が、スター選手の一人であるスーパーマンを撮り、更にユニバース全体の構想を練ったらどうなるのか。これも「たぶん大丈夫だろう」寄りではあるものの、正直読めないところがある。野村克也がジャイアンツの監督をするくらいには、読めない。
そして映画をきっかけに、スーパーマンの魅力とは何なのか、どう伝えるべきなのかと立ち返ってみると……これは意外と難しいし、厄介だなと。そもそも、ヒーローの原点であり頂点の一人なのに、その魅力や特徴があまり広まっていないというのが変な状況ではある。簡潔に言うなら”超人的な力を持つ善の人”なんだけど、これだとまったく人の琴線に触れるところが無いし、あまりに普通すぎる。もう少し深く掘ると”常に悩み正しさを模索している超人”みたいなのも出てくるけど、これでもよくあるヒーロー像ですし。むしろ、自身の行為に悩みを抱えてないヒーローは、おそらくヒーローではないわけで。
この「特徴が説明しにくいスーパーマン」は「SFは衰退した」「グレイシー柔術は弱くなった」に近しいものを感じます。様々なフィクション要素を持ったSFや、総合格闘技の黎明期にて猛威をふるったグレイシー柔術は、かつて触れた人間が他所に行き、強さが分析されることで、もっと大きな枠組みである創作や格闘技の基礎となり、ある意味個性が見えにくくなってしまった。スーパーマンも超人型ヒーローの基礎であるがゆえに普通になってしまった。実際、普遍化は栄誉であり、進化の先ではあるものの、フックが無くなった結果、元となったものが割りを食うという側面はどうしてもあるわけで。特別でなくなった結果、その特別さに寄りかかってたコミュニティが力を失ったり、当たり前の一分になった結果、特化型の専門家がいなくなったりと、栄誉と進化と引き換えに従来の枠組みやそこにいた人が割りを食うようなことが起こってしまうのも現実かと。実際、スーパーマンもバットマンと並び立つDCのビッグ2ではあるものの、コミックスや映画や関連商品の売上ではバットマンに大きく水をあけられてしまっているのが現状。逆にバットマンは、後発に伝えられるタイプの普通とは距離を置いた結果、逆に人にがっつり引っかかるタイプの個性的なフックが多い上に世間に広まりやすい作品。優等生よりアウトローの方がモテるみたいな理不尽さを、ちょっと感じてしまう関係性ですね。
というわけで、新作映画スーパーマンには、スーパーマンとはこういうものなんだ!とひと目でわかることを期待しております。本来スーパーマンは再生工場入りする立場にはないものの、ちょっと引いた目線で、「超一流に相応しい人気や実績を得ていない、いまだ伸びしろがあるヒーロー」にカテゴライズした場合、ジェームズ・ガン再生工場の対象にはなるわけで。映画に出てくるミスターテリフィックやホークガールも伸びしろアリなキャラなので、ジェームズ・ガンの得意技をやろうとしている=期待値を高くもっていいというのはありますね。というかうん、たぶんジェームズ・ガンがめっちゃ得意でがっつりやれそうなDCヒーローって、ヒーローのくせに脱税とかで悩んでる、クソバカ生々しさヒーロー殿堂入りのガイ・ガードナーだよな。