日々雑談~5930~

 マーベル・ライバルズのシーズン3.5が更新。ヌルが率いるシンビオート軍団VSヒーロー&フェニックスの構図に満を持して登場したのは、吸血鬼ハンターブレイド! 実のところ、ブレイドは対吸血鬼軍団がテーマとなったシーズン1で登場していたものの、密かにドクター・ドゥームの支援を受けていたドラキュラにより敗北。その後、シーズン1.5のドラキュラの城ステージにて拷問を受けている姿が目撃され、シーズン2開始と同時期に救出。シーズン2の間はずっとワカンダで静養していたので、本当に満を持しての登場だったりします。ずっと寝てるニート扱いからの脱出というのは禁句。本業の対吸血鬼では遅れを取ったものの、その分対ヌルにおいては、持ち前のダンピール体質を活用して、破滅のシンビオートと再生のフェニックスの力を同時に宿すという離れ業を実現。奇跡の融合……ブレイド……キングフォーム……。

 ゲーム的な性能はどうかと言うと、攻撃力重視のデュエリストの中でも、かなり強気な攻めができるタイプ。近距離だけでなく遠距離でも意外とイケる銀の弾丸入りのショットガンで牽制しつつ、振りの速い愛刀で相手を滅多切りに。ダンピールの血を覚醒することで、手数を更に増やしつつ、攻撃にリジェネ効果を追加。相手を攻撃し続けていれば、実質不死のタフネスを実現。高速で突進しつつ、相手に回復阻害効果を付与したり、剣によるガードも可能と、まあ前線には居てほしくないタイプですね。もともと体力自体はタンクほどではなく、覚醒後はヒーラーによる回復効果が落ちると、流石に集中攻撃を受けたらあっさり落ちますが、それでもかなりタフな部類ですね。同じデュエリスト枠だと、無敵モード持ちのミスター・ファンタスティックや一度だけ復活できるウルヴァリンといった実質サブタンク勢と並ぶんじゃないかしら。

 それにしたって、独特な剣のガードに、ビュンビュン剣を振り回すポーズに、必殺技であるドラキュラの剣による居合い切りを決めた瞬間、なんか映画で聞いたなあ!なBGMが聞こえてくると、やはり映画ブレイドは不滅だな。もう、こまけえことは忘れて、ウェズリー・スナイプスでまた撮ればいいんじゃない?

日々雑談~5929~

 ……室温38度って正気な気温じゃないよな。
 それこそ数十年前の基準だと、悪の組織がいろいろ弄くった末に「ガーッハッハ! 人間どもよ、38度の灼熱の大地で焼け死ねえ!」ってドヤ顔するくらいの気温なのに、今では自然に達してしまうんだからたまらねえよ。しかしまあ、そんなひどい気温でも、なってみりゃあ生きていけるし、生きていくしかねえんだよなあ。

 

 映画スーパーマンの感想を書いてみたけど、やっぱあの映画のテーマは「自分の頭で考えろ」だよな。だいたい、最初のスーパーマンの善行って、ロイスですらちょっとそれはどうなの……?となってる辺り、独善もしくはその一歩手前なわけで。万人に受け入れられるであろう優しさですら、衝動的に使えば理解されない。ならば、どう使うのかを考える必要があるわけで。その一方で、ロイスもスーパーマンの善性は認めている以上、彼の優しさをどう支えればいいのか、悩む彼をどう救えばいいのかを考える。そして、ある意味スーパーマン以上に考えているのがルーサーではあるものの、ルーサーの考えは悪であり、他人の思考を許さぬタイプの強制力があるっていうね。自分の頭で考える善と、他人から思考を奪う悪の構図ってのが、またねえ。
 でもその一方で、たとえその行為が独善的だったとしても、善である以上、その行為には人を惹きつけるだけの輝きがある――という面もちゃんと書いて善性自体は決して否定していない点は、優しさの映画スーパーマンとしてのでっけえ大黒柱かと。まだネタバレ上等なタイミングではないので、深いところには突っ込んでないけど、本気で突っ込んだらまだまだいろいろ出てくる映画だろうな。

映画スーパーマン感想~慈悲と自立と継承のヒーロー~

 スーパーマンほど難しいキャラはいない。おそらく世界中の人が想像するアメリカのヒーローであり、その知名度は高い。それでも、映画の興行収入やコミックスの売上を見ると、同じDCの同僚であるバットマンやマーベルのトップであるスパイダーマンの差はだいぶ大きい。この二人が凄すぎるというのは事実だとしても、スーパーマンならこの二人ぐらい売れてもいいはずだ。ただ売れないキャラよりも、売れ行きにレベルキャップがかかっているようなキャラの方が難しい。正確に言うなら、どうにかしてやりたいというもどかしさがある。スーパーマンはもどかしい。

 なぜスーパーマンはもどかしいのか。それは、そろそろ生誕90年が見えてきたスーパーマンが持つある種の神性にあると思う。スーパーマンはヒーローという存在の根源に近いところにいて、そこにいるだけの人格と能力を持った存在である。それを90年近く続けていれば、神々しいものにもなる。ちょっと時代と環境がずれれば、スーパーマン神社が出来てもおかしくはない。ただその一方で、神は崇拝や敬意を得つつも、どうしても親しみやすさを失ってしまう。馴れ馴れしくベタベタ触るのは憚られるし、適当に下世話なことを喋ったら怒られてしまう。そういう距離感だ。そして世間の大多数は、気安さや気楽さを求める。ベタベタ触れないのなら触れない、怒られるなら語らない。これは、自然なことだろう。一言で言うなら、スーパーマンは愛するには立派すぎるのだ。

 かと言って、売る側としてはスーパーマンは立派だなあで諦めるわけにはいかない。実際コミックスでは、様々なスーパーマンが描かれており、それを読めば思ったより神々しくないし、ずいぶんと茶目っ気があるのもわかる。だが、コミックスでは足りない。コミックスが力不足というわけではなく、今のアメコミ業界は映画のパワーが強すぎる。とにかく、映画がなんらかの道を作らなければ、スーパーマンのレベルキャップは壊せない。

 スーパーマンはもどかしく立派すぎてレベルキャップに悩まされている。この状況で、スーパーマンとDC映画の舵取りを任されたのがジェームズ・ガンだった。ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにスーサイド・スクワッドと数々の実績と成果を残した反面、どちらかというと立派でない非本流の側で成果を残して来たのがジェームズ・ガンだ。ワンダーウーマンやキャプテン・マーベルを主役とした映画を撮れる監督は複数いるだろうが、ラットキャッチャーを女性キャラにした上で主役の一人として扱う映画を撮れるのはジェームズ・ガンぐらいだろう。ジェームズ・ガンの実力は確かなものだとしても、そんな彼が初めて本流ど真ん中のスーパーマンを撮る。さながら、0からのチーム再建に定評がある野村克也&星野仙一をジャイアンツの監督に据えるような、確かな人間とチームの組み合わせなのにどうにも不安も残る構図。それが、ジェームズ・ガンがスーパーマンを撮ると聞いた時の第一印象だった。

 

 

 ジェームズ・ガンがスーパーマンの魅力を伝えるために選んだ手段は、スーパーマンのイメージに小さなキズをつけることだった。
 この映画は、スーパーマンの敗北から始まる。最強のスーパーマンは負けることを許された。
 スーパーマンはネットにおける自身の悪評に激昂する。菩薩のスーパーマンは怒ることを許された。
 スーパーマンの善き生まれと育ちにヒビが入った。皆に望まれし子であったスーパーマンは自分の望みを選ぶことを許された。
 ジェームズ・ガンはスーパーマンの(イメージによる)過剰なまでの完璧さを一枚一枚丁寧に剥がし、スーパーマンを偉大な神ではなく一人のヒーローにしてみせた。

 このジェームズ・ガンの選択はザック・スナイダー監督のマン・オブ・スティールあってこそのものに思える。マン・オブ・スティールのスーパーマンは偉大で逞しく、これから始まる一代神話の主人公となるべき格を感じた。だが、その格は維持することが難しく、様々な事情で満足な成果を残せなかったこともあり、ザック・スナイダーが思うスーパーマンは世界観ごと歴史の彼方に消えてしまった。結果的にジェームズ・ガンのスーパーマンがザック・スナイダーのスーパーマンに成り代わる形になったが、前任者が振り切ったからこそ選べた選択肢であること、そもそもガンとスナイダーは親しいという事も含め、今作の映画スーパーマンとマン・オブ・スティールは相反ではなく継承の関係と呼ぶのがふさわしい。おそらく神性を盛ったマン・オブ・スティールが無ければ、ここまでスーパーマンの神性を削る映画は撮れなかっただろう。続編を作る、前作の作風をそのまま引き継ぐ以外にも、作品の魂を継承する手段はいくつもある。

 

 

 この映画は政治的な映画ではない。このジェームズ・ガンの選択と発言は理解できる。スーパーマンを軸に移民を語るのであれば、氏より育ちと言わんばかりの展開は危ういし、現実を思わせる砂漠の世界の弾圧や戦争が描かれる一方で、現実で戦争が繰り広げられている極寒の世界の話は一切出てこない。そもそも、政治を語るにしては、この映画は痛快娯楽大作すぎる。

 ただ、この映画にメッセージ性はある。個人的に感じたのは「他人の考えや発言を盲信するのではなく、自分の頭で考えやがれ」という厳しいメッセージだ。
 この映画のスーパーマンは間違いなく優しい。だが、最初に見せた優しさは実の両親が残した不完全なメッセージに紐づく、どことなくふわふわとした優しさだった。スーパーマンは衝動的に困ってる人を助け、独断で独裁者をこらしめた結果、正義をなして怒られると言った状況に陥ってしまう。おそらく、常勝完璧のスーパーマンであれば、なんとなくもやもやしたまま、切り抜けることができたのだろう。少し後の話ではあるが、他の人々やヒーローも、スーパーマンの優しさを認めつつも、どことなく冷めた風があった。

 何度も言うが、この映画はスーパーマンの敗北から始まる。敗北を経験したスーパーマンは、挫折を味わい、今まですがっていた実の両親の正義とは程遠い真意を知る。人々の支持も超人的な力もすがっていた正義も失ったスーパーマンは、物語の中で再起を選び、再びヒーローとして困難に立ち向かう。再起したスーパーマンが優しい人であることには変わりない。だが、自分一人で何も出来ないことを思い知り、純朴な一般人である育ての両親と改めて向き合ったスーパーマンの優しさは、自分の頭で選び考え抜いた確かな物となっていた。そんなスーパーマンの優しさに感化された人々やヒーローも、他者の誹謗中傷や自らの都合をかなぐり捨てスーパーマンに協力する。彼らもまた、スーパーマン同様に、誰かに言われた道ではなく、自ら選んだ道を歩んでいた。

 実際、今回のヴィランのレックス・ルーサーは自ら積極的に発信し他人を惑わせる者。ウルトラマンは他人の言うことしか聞けない存在であり、もう少し深堀りすると(実の)親の言うことを素直に聞いてしまったスーパーマンのIFでもあると、洗脳する側と盲信する側に位置づけられている。たとえそれが間違いだとしても、間違いを飼い慣らせる者と、間違いを信じ抜く人間には怖さがある。その怖さに、優しさでどう立ち向かうのか。その一つが、キーボードを叩く猿ではなく、己で考える人になるということだろう。

 

 

 映画スーパーマンは、現在だいぶ興行収入的に厳しいことになっている。アメリカでは好調なものの、世界各国では不調といったところだ。現時点(2005年8月)では、それこそマン・オブ・スティールやジャスティス・リーグといったDCEUのスーパーマン出演作品に追いつけるかどうかと行ったところにいる。現状すぐにどうこうという話はないが、今後の展開次第ではジェームズ・ガンの立場も危ういものとなるだろう。だがその一方で、本作スーパーマンには新しい息吹と、これまでにない魅力を引き出す力があったのは事実である。この映画を土台にして、次のDC映画が跳ね上がる。もしくはこの映画が、遠い未来の新たなスーパーマンの映画に繋がる。そうなる力は、まずあるだろう。前述したマン・オブ・スティールの話と同じく、継承には続編以外の様々な形がある。

「私の願いはこの映画を見た子どもたちが15年後、スーパーマンになって世界を救ってくれることです」

 このジェームズ・ガンの願いは、きっと叶っただろう。そう言い切れるだけの、見事なスーパーマンだった。