バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 雑談(ネタバレ有り)
バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生の、ネタバレトークです。思いついたことを、ざっと時系列順につらつらと。ちょっとのズレは、ご容赦いただければ。
例のロシア人の彼のこととか、バットマンが見た悪夢に関しての小ネタにも触れております。
バットマンvsスーパーマンのはじまりは、一般人ブルース・ウェイン目線でのマン・オブ・スティール。スーパーマンとゾッド将軍の、超弩級ファイトの裏で街に何が起きていたか。マン・オブ・スティール当時は観客にとって小ネタでしかなかったウェインマークの人工衛星の落下も、一般市民目線では世界の終わりと同等だったのだ。ヒーローの戦いの余波とは、映画ガメラ3 邪神覚醒や、ゲーム巨影都市のように、1作品が作れるだけのテーマ。BvsSに触発されて、この系統の作品も、また増えるかも。
ブルース・ウェインの夢として出てくる、少年ブルース・ウェインがバットマンに目覚める瞬間。両親の死に困惑する少年が、暗い洞窟に落ち、蝙蝠により光明を見出す。おそらく、塞ぎこんでいたブルース・ウェインが、新たな道であるバットマンを見出したことへの回想とメタファーを一緒くたに夢にしたもの。ただ、最後、蝙蝠の群れに運んでもらう時は、ひょっとして今回のバットマンは蝙蝠に噛まれてコウモリ男となった超人なんじゃと一瞬頭に。
時折、映画に混じる、ブルース・ウェインの夢。夢への導入がわりと唐突かつ不可思議なので、ここを筆頭にシーンの繋ぎが悪いとの話にもなっている模様で……。
ダークナイト・ライジング以来となる、スクリーンでのバットマン。巌の如き頑迷さを感じさせる、ベン・アフレックの目や立ち居振る舞いが素晴らしい。
恐怖が武器の一つとはいえ、守るべき人たちにまで恐怖を与え、犯罪者に焼き印を押し付けるバットマン。このバットマンらしからぬ行為、そして違和感。この違和感こそ、この作品におけるバットマンの重要な鍵の一つです。
この作品のトリックスター(notローグス)として動く、レックス・ルーサー。若き俊才……というより、ギーグでオタクっぽいルーサー。あの止めどもないトークは、好きなことを語るオタクそのもの。ジェシー・アイゼンバーグにルーサーやらせるなら、コレしかないだろう! ぐらいのハマりっぷりでした。
ただ、今後このルーサーのDCエクステンデッド・ユニバースでの役割が、どうなっていくのかが読めませんね。多弁だといかんせんジョーカーと被るし、仕事もスーパーマンを倒すのにも真面目な原作ルーサーのポジションは、そのまんま使えんでしょうし。
アフリカからゴッサムまで、偽装工作から人さらいまで。作中こまごまとした仕事をこなす、謎のロシア人ことアナトリ・クナイゼフ。レックス・ルーサーやドゥームズデイのような大物に挟まれて目立ってませんが、彼もまた映画オリジナルではなくコミックス由来のヴィランです。コミックスでの名は、KGビースト。ああ、旧ソ連の秘密警察KGBの出身なんだと、誰もが予想する名前を持つヴィランです。まあ、その通りなのですが。
KGBにて技能を学び、生体兵器へと改造された暗殺者。フリーとなった後、渡米。バットマンとの戦いにて、敗北し拘束されるものの、左腕を自ら切断して脱出。以後左腕は、ライフルや鉤爪に変更可能な、アタッチメントアームとなる。
これだけコミックスでは濃いヴィランなものの、映画では普通の傭兵のボスに……ここは是非、映画キャプテン・アメリカのクロスボーンズのように、コスチュームを着て再登板してほしいところですね。俺は、待ってるぞ!
スーパーマンに支配された世界を、悪夢として垣間見るバットマン。バットマンがスーパーマンに抱く恐怖や強迫観念とも思える夢。しかし、悪夢の後、ロイス・レーンの名を叫び、まるで未来を知るかのように振る舞う謎の男の幻影、本当にアレは夢だったのだろうか……?
あの謎のシーンをコミックスに照らしあわせた場合、消えかけそうな状態で叫んでいた男は、おそらくフラッシュ(バリー・アレン)。『クライシス』(Crisis on Infinite Earths)にて命を落とし、死の残像としてバットマンにメッセージを伝えたフラッシュの姿にそっくりです。
なのであの悪夢は、単なるバットマンの心象風景ではなく、一つの未来へと繋がるものなのかもしれません。空を飛ぶ悪魔のような兵士、バットマンの立つ大地に書かれていたΩ(オメガ)の文字。空飛ぶ悪魔、あの外見はパラデーモンと呼ばれる悪魔の軍勢そのもの。その悪魔を率い、Ωの文字を象徴とする男と言えば、DCコミックス最大の巨悪と呼ばれるダークサイド――
スーパーマン、ロイス・レーンの危機には即気づいてたのに、なんでマーサ・ケントの時はギリギリまで気づかなかったんだろう……。
自身の持つ最大の兵器、バットモービルですら歯牙にかけないスーパーマン。そんなスーパーマンと戦うためにバットマンが選んだ戦略は、超人化ではなく、あくまで人の戦略と技術にて超人に抗う道。アーマードスーツとクリプトナイト、そして作戦にてスーパーマンを追い詰める!
この戦い、スーパーマン目線だと、強力な状態異常を使ってくるボスとの対戦。バットマン目線だと、一定条件を満たさないとダメージを与えられないボスとの対戦だったんだろうなあ。バットマン的には、ボスというかもはや大魔王。使用回数付きの光の玉で、ゾーマと戦うようなもんだな。
スーパーマンと戦っている時のバットマンは、両親の死ですら唐突な死を教えてくれる存在でしか無いと冷えきっていましたが、スーパーマンにとどめを刺す寸前、スーパーマンの呟きと駆けつけたロイスの説得により、改めてマーサの名を、自分が何故バットマンになったのかを噛みしめることになりました。
バットマンはこの後、マーサ・ケントの救出に向かうわけですが……ここで、ブルース・ウェインは、ヒーローとしてのバットマンに戻ったのだと思います。今までのバットマンは、恐怖を武器としながらも、スーパーマンへの恐怖に縛られてました。でもここで、スーパーマンを認め、マーサを救うと誓うことで、バットマンはダークナイトとしての自身を取り戻したわけです。この映画にてヒーローとしてのバットマンがスクリーンに姿を表したのは、マーサ救出に動いた瞬間だと思っております。今までのバットマンは、言ってしまえばコウモリのコスチュームを纏っただけの狂人。マーサが死ぬことで生まれたヒーローは、マーサを助けることで、復活したわけです。
だから、ラストシーンでバットマンはルーサに焼き印を押さず、決別の証のように、壁に叩きつけてみせた。ヒーローであるバットマンに、焼き印はやはりいらないものなのでしょう。
……もっとも、この映画のヒーローとしてのバットマンも、わりと死んでもしょうがないかなぐらいのファイトっすよね。つーかうん、どうみても何人か死んでる。ティム・バートンが撮ってた頃と、同じぐらいの殺る気かなあ。
予告でちらりと姿を見せていたものの、まさかの異種姦で登場したドゥームズデイ。バイオゾッドと、ちょっと呼んでみたい。ルーサーのスキンヘッド、この実験の差異、変な溶液に浸かったところで、バサバサ抜けちゃってよかったと思うんだけどなあ。
生前のゾッド将軍以上の暴威を撒き散らす、ドゥームズデイ。放っておけば、世界に終末をもたらしかねない怪物は、戦士ワンダーウーマンの心を奮い立たせる。
今作のワンダーウーマンは、人類とも戦いとも一歩引いた位置に、言ってしまえば冷めた感じでしたが、ドゥームズデイの出現、そしてそんな怪物と戦う超人の姿に触発され、前線に復帰しました。バットマンと同じく、ワンダーウーマンもこの作品で、本来の英雄たる自分自身を取り戻したのでしょう。
ジャスティスの誕生。このサブタイトルは二人のヒーローの覚醒にも、かかっていたんだと思います。
予告でドゥームズデイらしき怪物が登場した時から、薄々予感されてもいた、スーパーマンの死。マン・オブ・スティールでのスーパーマンによるゾッド将軍殺害と同じく、ラストにそこまでやるか!なシチュエーションを持ってくるパターンですね。ゾッド将軍殺害も、コミックスにあったので。マン・オブ・スティールの時は、一作目からそれをやるか!と言った感じでしたね。
ただ今回の仕掛けはその……既にジャスティス・リーグをやるというのは周知の事実ですし、映画の展開事態がチーム結成に繋がる展開。更にはラストの怪しげなシーンと、スーパーマンの死というシチュエーション事態が、一時的なものであると見透かされてしまっているんですよね。言うなれば、プロレスラーの引退と同レベルの信頼度。観客の間に、予定調和というしらけが生まれる可能性もあり。
せめてドゥームズデイを隠しておけば、少なくとも原作ファンへの不意打ちは可能だったと思うのですが……。この辺り、宣伝と秘匿のジレンマを感じる部分です。
現状、バットマンvsスーパーマンの評価は二分されているようです。日本だけの話ではなく、世界的に。本国アメリカでも、興行収入の新記録を打ち立てつつも、ザック・スナイダーのシリーズ降板を求める署名があっという間に数千集まったりと、アンバランスな状況に。どの国も、この映画への接し方に悩んでおります
この好き嫌いがハッキリと別れる状況、いくつか理由はあると思うのですが……個人的にコレかなあと思うのは、話の重要箇所に原作ネタをぶち込んでしまったことですかね。原作ネタを盛り込むのはアリですし、むしろウェルカムなのですが、そこを本筋に置いたり、説明を省くために使ってしまっているのが、一つのハードルとなってしまっていて……。
例えば、バットマンの過去へのヒントとして、ジョーカーに落書きされたであろうロビンのコスチューム、映画の元ネタの一つである、DARK KNIGHT バットマン:ダークナイトを想起させるアイテムが出てくるのですが、そもそもロビンの存在とあのコスチュームがロビンのものであると把握出来るだけの知識がないと、厳しいですよね。それでいて、過去を具体的に説明するシーンがないので、把握できない人はそこで置いてけぼりになってしまう。
実際自分も、一応知っている立場として気づかなかったのですが、映画の後、喫茶コーナーで一休みしている際、隣りにいたカップルの感想というか酷評が耳に入り、そりゃそうだよなと納得してしまい。そりゃ“スーパーマンを殺したヴィラン”ドゥームズデイのことや、“ビッグ3の一画”ワンダーウーマンのことを知らなかったら、最終版の決戦もスーパーマンの死も、唐突な展開+帳尻合わせにしか見えんよな……。知らなければ、そこには浪漫も美しさも何もないわけです。
現在、海外発のスーパーヒーロー映画のデフォルトとなっているのは、おそらくマーベル映画。コミックスからつかず離れずの独立性を保ち、本筋は基本的に映画内で完結するような方針。この至れり尽くせりの結果、スーパーヒーロー映画は客層の幅を広げたわけですが、この広がったライトな客層と現状のDCエクステンデッド・ユニバースの相性は、あまり良くないと思うのですよ。実際日本でも、絶版や未邦訳の原作ネタが多く、フォローにも限界がありますし。今現在世界的なヒットを飛ばしているバットマンvsスーパーマンですが、今後の伸びや次作以降の人気は、その国でどれだけ原典となるコミックスの情報が手に入りやすいかにかかっているのではないかと。
というか、売れるか売れないかの話で言ったら、アントニオ猪木とジャイアント馬場がシングルマッチでぶつかって、武道館が満員御礼になるか!ってとの同じ話ですからね。バットマンとスーパーマンがぶつかるんだもの、そりゃ、最初は確実に売れるよ。大事なのは伸びと次作以降です。おそらく真の数字としての評価が出るのは、直近ではスーサイド・スクワッド、将来的にはジャスティス・リーグ以降でしょう。
このファンにとっては美しさがあり、パーツごとは優秀、しかし一歩間違えると置いてけぼりになってしまう。バットマンVSスーパーマンって、オールライダー路線創生期の、劇場版仮面ライダーディケイドに性質や作風が凄く似ていると思うのですよ。オールライダーや二大ヒーローの対決というウリで、スタートダッシュは確約されていた辺りも。
いやホント、バットマンvsスーパーマンを前にした海外の評論家やファンが作品との距離感に悩む姿、その姿が7年前ディケイドを前に悩んでいた日本の評論家やファンの姿とタブって。アレは俺だ! 昔の俺達だ!
回り始めた歯車、そしてまず先行のマーベル・シネマティック・ユニバースとは一味違う作風。出来ることなら、多少の路線変更はアリとしても、現在あるままのDCエクステンデッド・ユニバースとして突っ走って欲しいところです。俺はオールライダーもバットマンvsスーパーマンも、好きだし愛おしいよ! でなきゃ、何度もシリーズや映画そのものを劇場まで観に行かねえって!