オーバー・ペネトレーションズ#2-2
「もう、勝てないねえ。次は」
キリウの入った棺桶を見て、バレットはそんな感想を述べた。
「ならば、次がない所に送り返そう。母国に送り返してしまえば、きっとおいそれと帰ってはこれまい。どんな王でも、身内の恥の再出国は許さない」
オウルガールも、暗に認めていた。もはや街に、この怪物を閉じ込められる檻は無いと。
「ならいいけどさ、なんかその内、パワーアップして帰って来そうで怖い。自ら、女王になっちゃったりして」
「嫌な事を言うな。もしそうだとしても、私とお前が居れば、次も大丈夫だ」
「そうだね。居れば、大丈夫だ。もう一人じゃ無理だ。一人だったら、俺は逃げるよ」
「お前にコスチュームをずり下ろされた時、キリウは本気で怒っていた。小賢しい男め、これぐらいで余が恥ずかしがるか! 次は、目が合った瞬間殺されるな」
「目があったら、死ぬより先に石になるけどね。どうもファクターズとはある程度仲良くやれても、キリウとだけは上手く行かないなー」
「犯罪者に色目を使うな」
「ヒーロー仲間には?」
「……馬鹿」
拗ねるオウルガールを見て、バレットは嬉しそうに笑う。笑ったまま棺桶に近づくと、こっそり棺桶めがけ呟いた。
「という訳で、勝ち逃げさせてもらうよ。悪いね」
ガタガタと、棺桶が大きく揺れる。余計なことを言うなと、オウルガールはバレットを、軽く小突いた。
このしばらく後、バレットは見事勝ち逃げに成功した。死ぬことにより。
ウェイドシティの近隣都市、ラーズタウン。二つの街の距離は、夜に晴れていれば、お互いの街の灯が見えるという、実際の距離は分かりづらいが、なんとなく近い。よく、このような表現で説明される。
ウェイドシティよりも多少古く、治安の悪い街の大ホールにて、この街には似つかわしくない、まともなイベントが行われていた。
「街の名士の皆様方。本日はチャリティイベントにお越しいただき、ありがとうございます。皆様のご協力のおかげで、このように象も入るサイズの箱いっぱいの募金を集めることが出来ました。ではここで、主催のタリア・アズルール嬢から、皆様へ改めましての、お礼のお言葉を」
司会者の合図と共に、ゆっくりとした足取りで出てくる女性。応用な動きや眠っているのかと疑うような穏やかさは、箱入りのお嬢様として生きてきた証だろう。ラーズタウン随一の名家、アズルール家の現当主であるタリアは、お嬢様の金字塔的存在だった。周りの人々がしっかりサポートしているためにどうにかなっているが、おっとりとした彼女は、どうしても頼りない。
だが、このような活動を通して、街を善き心で動かそうとしている彼女を、悪く言うものは誰もいなかった。熾烈な行動で街を守り、悪い噂も共にある。この街を棲家とする某ヒロインとは、好対照である。
「あの、本日は、どうもありがとうございます。ご紹介にあずかりました、タリアです」
強化プラスチック製の透明なケースの前で、タリアはお辞儀をする。ケースいっぱいの小銭や多少の札は、今回の募金運動にて街中から集まった物である。他者から悪徳の街呼ばわりされるラーズタウンであるが、このような僅かな善意は、まだ街中に残っていた。
「みなさまから預かった大切なお金は、きちんと分けあって、恵まれない人の元に」
「そういう無駄なコトは、止めてもらえんかね!? 金は、恵まれた者の元に集まるべきなのだよ」
チャリティイベントの根幹を揺るがす発言をしたのは、銃器を所持した黒覆面を引き連れた、謎の紳士だった。覆面は、中央に大きく$マークが染め抜かれている。また、$マークは紳士の左目周辺に、刺青として刻まれていた。
「そう。我輩のようなね」
紳士は、右目を軽く弾く。紳士の右目には、大きな金貨がモノクルのように埋めこまれていた。痛々しい容貌でありながらも、彼の態度に痛みはない。あるのはむしろ、誇らしさだ。
「ふう……」
痛々しさに耐えかねたのは、他人であるタリアだった。舞台上で気絶したタリアを、彼女直属の執事が抱え、舞台裏へと消えて行く。
「会場にお集まりの紳士淑女の諸君! この愛しき硬貨は、恵まれし者、マネー・セントと配下一同がいただく。諸君らのカードばかりの財布には興味はない! 命惜しくば、逃げ出したまえよ!」
悪党マネー・セントと配下に急かされ、客席の名士は我先にと逃げ出す。悠々と壇上に登ったセントは、手にしたステッキを振りかざし、強化ケースを破壊した。ケースの中身、チャラ銭が水のように流れ出てきた。セントは愛おしげに硬貨を手ですくっている。
「動くな!」
拳銃を手にした二人の警備員が、セントを背中から狙っていた。
「我輩は動かない。部下も動かない。動くのは、君達の財布さ」
一人は胸ポケットから鼻の穴、一人は財布から両目へ。二人の所持した僅かな硬貨が飛び出し、主二人の穴を塞いだ。警備員たちは痛みに叫び、セントの部下に袋叩きにされる。
「どうやら、君達の金は、君達より我輩に仕えたいようだ。当たり前の話だがね」
溢れでた硬貨が固まり、巨大な大蛇の形を作り、鎌首をもたげた。セントは、超能力者であった。この硬貨のありえない動きも、彼の念動力による物だ。
硬貨を偏執的に愛する超能力者であるセントが、最も容易く銭金が手に入る仕事、犯罪の道へと足を踏み入れたのは当然のことだった。彼は念動力で硬貨を操り武器とし、硬貨をこうして掠め取る。募金会場など、セントが狙って当然の場所だ。
「おお。なんという事だ。美しい金属の山に紛れる、紙の汚さよ。いつも通り、この紙は、お前達にやろう」
喜んで、硬貨の蛇から紙幣を奪い取る部下達。彼が愛しているのは硬貨であり、紙幣でない。結果、部下への金払いは良くなり、セントが部下に困ることはなかった。ある種、硬貨への愛のおかげだ。
突如割れる、上階の窓ガラス。外から飛び込んできたフクロウの爪が、硬貨の大蛇に一撃を与える。大蛇は崩れ、大蛇から紙幣をもぎ取っていた多数の部下が、硬貨に生き埋めとなった。
「この街で仕事をする以上、君が来るのは予想していたよ」
セントは大蛇が死んだ跡、硬貨の山を踏みつけ現れた、オウルガールを迎えた。いくら最近、他所の街に出張っているとは言っても、ラーズタウンで暴れれば、彼女はこうして絶対に現れる。
「何故だ」
オウルガールの口から出たのは、質問だった。
「何故とは?」
「とぼけるな。何故貴様が、この街にいる。マネー・セントのホームタウンは、ウェイドシティだろう!」
セントは、ラーズタウンの悪党ではなかった。彼は、ウェイドシティに縄張りを持つ、悪党である。悪には悪の都合がある。テリトリーを持つ悪党が、こうしていきなり他の街に出てくるのは珍しい。他人の縄張り、他の悪党の領域を、土足で踏み荒らすことになるからだ。
「知っているさ。なにせこの右目の金貨は、前のバレットに埋め込まれた物だ。結果的に、金色の輝きを得たこの目、彼を恨むどころか、墓前に礼を授けたいぐらいだよ」
「残念だが、ラーズの流儀はウェイドより厳しい。墓参りが、許されると思うな」
「怖い、怖い。何故ここに居るかと聞かれれば、答えは簡単。金貨、硬貨のあるところに、我輩あり。最も、このイベントの情報を教えてくれたのはあの……怪物だがね」
「よく分かった。お前がここに来た理由は、足止めか」
怪物と聞いただけで、オウルガールは怪物の正体と目的を理解した。怪物、ウェイドシティに現在も居座っているキリウが遂に、動くのだ。彼女はバレットボーイと相対するつもりでいる。
「足止め? ハハン! 我輩はこうして、硬貨を愛しに来ただけだよ!」
セントのステッキの動きに合わせ、ダダ漏れになっていた硬貨が再び固まる。大きなゲンコツとなった硬貨が、オウルガールめがけ振り下ろされた。オウルガールは避けるものの、ステージの床が大きく破壊されてしまった。
「我輩は愚かな鳥に、ウェイドの力を教えるとしよう。只の人間が勝てる程、我輩は甘くないぞ!」
例え精神におかしなところがあっても、マネー・セントは強敵であった。むしろ、精神がおかしいからこそ、強いのか。彼の部下も、次々と起き上がっている。
彼らを放置し、ウェイドシティに向かう。妥協せぬ彼女の中に、存在しない選択肢であった。
戦術という物は千差万別である。相手の虚を付く奇襲。信頼を肴に相手を騙す策略。もっと細かくカテゴライズすれば、種類は万を容易く超える。
歴史上の様々な人物が、発見、検証、実践を繰り返してきた手段の中から彼女が選んだのは。最も古いが、未だ多くに愛されている戦術、力押しであった。愚かな戦術の代表格として扱われる物であるが、十分な力、相手との戦力差があるならば、最も効率的な戦術である。
そして彼女は、力押しを選ぶだけの、十分な力を持っている。
キリウは、街を観察していた。ウェイドシティの中心街に張り巡らされた、モノレールの中央駅。人が最も多く集まる駅前広場に立ち、行き交う人々を観察している。モノレールの性質上、駅は高架上の見上げる位置にあった。
「人の行き来は数年前と何も変わらぬ。だがおそらく、顔ぶれは変わっている筈だ。むしろ、そうでなくてはいけない」
なるべく感情は抑えているものの、キリウは不満であった。思わず勢い任せに、駅前広場を血の海に変えてしまいかねないぐらいに。
「余がこうして駅前にいて、何故、騒ぎにならんのだ!? 全部当時のままで揃えたのに!」
一般人に変装していたから気付かれなかった。自らの類まれなる美貌をも隠す、余の変装術は素晴らしい。
こんなつもりでいたのに、いざ変装を解いて、当時のコスチュームを着た上で目立つ場所にいるのに、なんの騒ぎも起きない。これでは、まるで、キリウという大悪党が忘れ去られているみたいではないか。自らの存在が、これほどまでに薄いこと。自己顕示欲が強いキリウにとって、大ダメージとなる出来事であった。
「ええいもう。前置きなしで、街を焼き尽くしてやろうか。だが、それでは優雅に欠ける」
「ちょっと、そこのアナタ」
「ようやく来たか、官憲よ!」
制服姿の警官に声をかけられたキリウは、マントを大きく翻す。彼女はとても、嬉しそうだった。たった一人で来た若い警官は、疲れた様子で頬をポリポリとかいた。
「ああ……いやね、駅前で痴女まがいのコスプレイヤーが騒いでいるって通報があったんですわ。ちょっと、パトカーまで来てもらえる?」
「痴女……だと……?」
「ええ。鏡持ってきましょうか? アンタ、どう見ても痴女ですよ」
黒いハイレグをベースにし、各所を薄布やアクセサリーで飾り、最後は裏面が赤の黒マントで完成。これが当時、キリウが怪物の恐怖感を身に宿すため、自らデザインした衣装だ。一応、彼女の威厳や底知れなさを感じさせるデザインとして纏まってはいるものの。哀しいかな、露出度だけに注目すると、これは立派な痴女の衣装であった。穿いていないし、脇も思う存分出ている。色々なフェチが、満足できそうだ。純白である女王の衣装、その真逆すぎる。
「痴女とは、随分懐かしい響きだ。初めて余を痴女と呼んだのは、あの男だった」
溢れんばかりの才能を持つキリウですら、三日三晩悩みぬいて創り上げたコスチューム。コスチュームを着て現れたキリウを見て、光速の男はまずキリウを痴女と呼んだ。自分も、全身タイツの分際で。
気がつけば、キリウは警官の首筋に噛み付いていた。とっさに感じた不快さのせいで、どうやら予定より熾烈な手段を取ってしまったらしい。警官から離れたキリウは口を拭い、警官の顔立ちを確認する。まあ、噛み付いてもいいかなというぐらいの、ラインではあった。
ここでようやく、悲鳴が聞こえる。犬歯が若干伸びた警官が、OLに噛み付いている。OLが意識を失った後、警官は新たな獲物へと向かう。また気づけば、先ほどのOLも犬歯が伸びていた。次々と、噛み付かれ増えていく犠牲者。吸血鬼は、伝播するのだ。
「キリウだ!!」
「その通り! 余は帰ってきたぞ、この街に!」
ようやくまともに存在を認知され、キリウはより大仰な動きで悲鳴に応える。先ほどまでの不機嫌さは、何処か遠くへとすっ飛んでしまった。女王は現金なのだ。
いきなり駅前に大ボスな悪役が居ることが、突拍子のないことでなければ。現実味がなさすぎて、大半の市民がとても良く似たコスプレイヤーだと思わなければ。やって来た警官が、最近他所からやって来た新人でなければ。キリウは予定通りの作戦を実行し、街全体を汚染するような手段は取らなかったのに。不運という物は、こうして多少のズレで発生する。
なお本来の予定では、ただ力任せに、モノレールを薙ぎ直す気でいた。
キリカゼ、マイスター、店長の三人は、エル・シコシス備え付けのTVを食い入るように観ていた。
「始まったか!」
「うわあ。よりによって、吸血鬼で来ちゃったよ」
「ここまで汚染拡大したら、テーブルや椅子で店の入り口を塞いでの立てこもりですネー」
臨時ニュースで流れる駅前の光景を見て、店内の客も慌てて帰り支度を始める。店は、普段通り営業中だった。
「あの、大変申し訳ないのですが、ヘルプをお願いしたいのですが。そこの人、焦っていても、会計は済ませてから出るように!」
ヒムロだけが、店を必死で回していた。皿洗いと会計と食い逃げ防止で手一杯である。
「なにせ人生がかかっている。眼はTVから離せぬな」
「展開によっては、移住ですもんね。三人民族大移動」
「まー。馬車馬のように働いても、バチは当たりませんヨ? 逆に、それぐらいしないとバチが当たっちゃいますネー」
「くっ……!」
痛い所を突かれたヒムロは、早々にヘルプと反論を諦めた。そのまま黙々とレジを打ちながら、TVの音だけで状況を聞きとろうとするが、
「む! これは!」
「おおお……店長、あたし、いっそ現場に行っちゃっていいですかー!?」
「止めといたほうがいいですヨー。オウチでTVが一番でス! 落ち着いて見れますシ」
やかましい実況のせいで、全然聞こえなかった。
「あ。やられた」
誰かの悲鳴を最後に、中継がプッツリと切れた。
電話やメールにモールス信号まで、オウルガールより与えられた通信手段を全て使い果たした後、オウルガールが動けぬ状況であることを知った。ノゾミはバレットボーイのコスチュームを握り締める。タイツは、スクールバッグの中にあった。
キリウに会ったら、逃げろ。オウルガールの指示は絶対であり、よしんばキリウという怪物を倒せたとしても、オウルガールはノゾミを叱責するだろう。もしかしたら、バレットの名前を奪い取られるかも知れない。コスチュームを握る手に力がこもるのは、この逡巡のせいか。
それでも、ノゾミには動かなければならない理由があった。キリウを倒して、オウルガールに認めてもらう。そんな安い若者の夢ではなく、もっと切実な今が理由だ。
コスチュームと逡巡から手を離し、ノゾミは普段着のまま、半泣きの子供の前に割り込む。光速のパンチが、男の子を襲おうとしていた四人の吸血鬼を、一瞬で叩き伏せた。
偶然ながら、ノゾミが居たのは、モノレール中央駅近くの本屋だった。奇しくも彼は、大感染の真っ只中に、最初から居たのだ。
「……すげえ! チャンプ!?」
先程まで震えていた男の子は、感嘆の溜息をもらし、ノゾミの背を見つめていた。さながら彼の眼には、ノゾミがボクシングの世界チャンピオンでも見えたのだろう。
ノゾミは振り向くと、男の子の頭を撫でながら、言い聞かせた。
「そうだよ。お兄ちゃんは、チャンピオンなんだ。とりあえず、君は逃げろ。後は、チャンプがどうにかするから」
「うん! 分かった!」
走って逃げる子供の背を、目で追うノゾミ。多少、素顔を晒したまま派手なことをしてしまったが、あの子にとってのノゾミは、ボクシングのチャンピオン。おそらく、問題はないだろう。知られて困るノゾミの正体は、光速のチャンピオンなのだ。
ノゾミは再びコスチュームを手にする。もはや、握る手に力は込められていなかった。込められているのは、脅威に立ち向かう意思であった。
パンデミックの恐怖で、渋滞する大通り。車の中から、次々としびれを切らした人々が出てくる。自分の足で逃げようとする彼らを襲う、吸血鬼の群れ。なんという大事件にと、最も憂慮していたのは他でもない、張本人のキリウだった。
「ううむ。どうしてこうなったのだ?」
騒ぎを起こして、まずはバレットボーイをおびき寄せようと思っていた。でも、ここまでの騒ぎは考えていなかった。これでは、バレットボーイではなく、先にウェイドシティが死んでしまう。まあ、それでも別に構わないが。壊滅したウェイドシティに捧げられる、救助の手。このような経済支援の名目で、ヴェリアンを通して街を手中に、というのも面白そうだ。
キリウの悩みを排除したのは、走る閃光だった。光は吸血鬼を捕らえると、無人の車に次々と閉じ込め、定員いっぱいの所でドアロック。時には店主の逃げた商店や電話ボックスも利用して。瞬く間に、街をさまよい始めていた全ての吸血鬼は、閉鎖空間に閉じ込められてしまった。
キリウは突如、鋭い一撃を眼前に振るう。吸血鬼捕獲後、キリウめがけて走って来た青い光を、五指の鋭い爪が掠めた。
「うわっ!?」
キリウに弾き返された光、バレットボーイが姿を表す。初めて相対したヒーローを、キリウは改めてまじまじと観察した。やはり名前通り、ボーイはバレットよりも、一回り若い。そのぶん、いきなり真正面からかかってくるぐらいに、直情だ。
あまりの直情さに当てられたのか、キリウの心中に妙なさざ波が立った。
「新たなバレットは、随分と正直なようだ」
「先代と違って、俺はこういうことしか出来ないんだよ!」
ボーイは怯むこと無く、再びキリウに光速で挑みかかる。
「人の名乗りを聞くぐらいの、落ち着きは必要だと思わぬか?」
「!」
「そう驚くな。同程度の速度があれば、こうして光速の世界でも普通に会話ができる。余と先代の間で、既にこのことは証明されているのだ」
キリウもまた光速の世界に入門し、ボーイのパンチを片手であしらっていた。邪魔であろうマントは脱いでいる。
キリカゼのように、ボーイに肉薄する速度を持つ人間もいるものの、最高速度という壁は誰がどんな工夫を持ってしても壊せなかった。しかしキリウは、安々と壁を壊してみせたのだ。
「狼男ってヤツは、こんなに素早いのか?」
「知らぬ! あくまで怪物は理想。余の理想である彼らは、最高の力と速さを持つ生き物なのだ!」
言い合いながら、戦いながら、移動しながら。せわしない二人は自然と、手近な階段を駆け上がり、戦いの場を移していた。
「まいった。これはまた、随分と走り易そうだ」
地面の感触がやけに硬くなるまで、ボーイは場所の移動に気づいていなかった。目の前の敵と競ることで、自分と互角の速さを持つ存在との競争で、手一杯だったようだ。
仕切りなおしとばかりに、ボーイとキリウの距離が離れ、脚も一旦止まる。
「全てを蹴散らせる余はともかく、そちらは人が居る街より、ここの方が存分と走れるだろう?」
戦いの場は、中心街をぐるりと囲む、モノレールの線路上へと移動していた。レールは直接走れずとも、レールの脇には走るに十分な作業用のスペースが確保されている。多少の障害があるのは明らかだが、更に障害の多い街よりは、遥かに“バレット”が走り易そうだった。
「ありがたいね。ありがたすぎて、新記録を狙えそうだ!」
「さあ来い、最速の男よ!」
地面を確認できぬ程、向こう見ずな若者。ならば、地面に罠でも仕掛けておくべきだ。
何故か、何時もは出てきそうな効率的な策略が、今のキリウの脳裏には一瞬もかすめなかった。それどころかこうして、相手方に有利になるような行動を自然と取っている。
少なくとも、この謎の揺らぎを検証する時間は、光速の世界においては存在しなかった。
同時刻。ラーズタウンでもまた、ヒーローがヴィランに追い詰められていた。
「おやおや、逃げるだけとは。逃げ足を極めたいのならば、ボーイ君に習った方がいいんじゃないかね?」
セントの嘲りの後、彼の部下も笑った。ステージ上、小銭を固めて作ったクリーチャーと銃弾から、オウルガールはただ逃げ回っていた。時折体勢を崩して、床に手をついたりしながら。彼女に似合わぬ無様で必死な動きに見える。だから、笑えた。
嘲笑に耐えかねたのか、オウルガールはクリーチャーを殴りつける。クリーチャーは爆散し、小銭として床に散らばる。小銭はステージ上に波を作り、彼女をステージ上から押し流した。
「やれやれ。ラーズタウンの悪党は、この程度の女にいいようにやられていたのか。外聞は派手でも、ラーズタウンのレベルは低かったと」
硬貨が壁を作り、ステージ上に要塞を築き上げる。壁や塹壕に、身を潜める手下。セントは皆様の募金を、いいように使っていた。非常に道具として、効率的に。
ステージ下に落ちたオウルガールは、勝ち誇るセントに目もくれず、ベルトのポケットからスイッチらしき物を取り出した。何でも入る、ユーティリティベルトだ。
謎のスイッチを見たセントは、ステージ上、ステージの床を見回す。突如よぎった嫌な予感は、的中していた。オウルガールが転げまわっていた辺りに、何やらジェル状の物が付着している。
「いかん! 逃げ」
セントの指示より先に、オウルガールはスイッチを押してしまった。ステージに撒き散らされたジェルが爆発し、木製の床を全て崩落させた。セントと手下と硬貨、ステージ上にある物は全て、巨大な穴に飲み込まれてしまった。
オウルガールは、ステージに近寄り、縁から穴を覗き込む。穴はステージ下部の倉庫スペースに繋がっており、セントと手下は、小銭に埋もれたまま気絶していた。彼らはこの後、ラーズタウンの流儀で裁かれる。おそらくセントは刑務所ではなく、精神病院に送られるだろう。刑務所が天国に見える程に苛烈な、ラーズタウンのサナトリウムに。
敵を倒したからといって、このまま放置するわけにはいくまい。最低限警察に引き継がなければ。いくら焦っていても、彼女に手抜かりは発生しない。
つまりまだ、すぐにウェイドシティには向かえないということだ。
オウルガールは、まずバレットボーイに連絡を取ろうとするものの、どの通信手段を使っても、彼からの応答はなかった。ボーイは今、連絡が取れないほど必死な状況下にいる。
推理がもたらした物は、どうにもならない焦燥感であった。
最近のモノレールは、自動制御の物も多い。しかし旧型であるウェイドシティのモノレールには、まだ運転手が必要だった。先頭の運転席、運転手は悩みぬいていた。
下の惨状は分かっている。しかし、不安に怯える乗客をこのまま乗せておくわけにはいかない。例えこの中が今は安全だとしても、レール上に孤立してしまってはオシマイだ。もう一つ、切なる悩みは、レール上を走っているであろう謎の影だった。高速鉄道もあわやというスピードで、レール上を駆け回っている二つの影、影はモノレールの車体を避けたり乗り越えたりしながら、環状線をぐるぐると回っている。こんな怪しい物が居る状況で、モノレールを動かしてしまってもいいのだろうか?
コンコンと、運転席脇の窓が叩かれた。
「ひゃい!?」
悩んでいた運転手は、突然の音に驚く。少し開いた窓の向こうには、バレットボーイがいた。二つの影の、一つの正体だ。
「どうも。ヒーローです」
「ど、どうも」
「俺のことは、知ってますよね?」
「はい。ボーイさんですよね。ヒーローの……」
「なら、二つ言うことがあります。まず一つは」
言いかけの所で、ボーイの姿が消える。だが彼は、即座に戻って来た。
「中央駅はダメですけど、西部駅はまだ安全ですんで、そこで乗客を降ろせばいいと思います。後もう一つ……もう来た!」
再び消えるボーイ。残りひとつの影から、彼は逃げているように見えた。しばし後、再びボーイは、運転席に顔を覗かせた。
「ホント時間ねえな! えーと、モノレール動かしても大丈夫です! てーか、早くお願いします!」
慌てているせいか、ボーイからノゾミの素が出ていた。一般市民には基本礼儀正しい口調で。そんなオウルガールの教えを守っていられる程、悠長な状況ではなかった。
「は、はい!」
「頼みます! では!」
運転手がモノレールを発進させるよりも先に、バレットは光速の世界に身を投じた。
己が速く動けば、周りが止まって見える。乗り物を使えば、一般人でも簡単に体験できることだ。ボーイならば、己の脚で体験できる物であった。そしていくらモノレールが持てる限りの速度で走っても、光速の世界においてはゆっくりとした動き。レールにのっそりと居座る車体を、避けたり駆け上がったりすることは、実に容易であった。
「遅い。待ちくたびれたぞ!」
「ああ。待たせたな!」
光速のままであったキリウが、背後からボーイに接近する。二人は並走状態で、競り合い始めた。ボーイの肘打ちやパンチと、キリウの爪が、何度も二人の間で交錯する。
手数はボーイが勝っているのに、ダメージはボーイの方が遥かに大きかった。コスチュームや肌に引っかき傷を残すボーイ、片や無傷のキリウ。ボーイが無力なのではなく、キリウがタフすぎるのだ。むしろ手数で勝っているだけで、大したものだ。
「余は、千日手を好まぬぞ」
キリウは拳を握りしめ、足元に叩きつける。レールが揺れるが、ボーイは足元の揺らぎを気にせず走り続ける。むしろ今の動作のせいで、キリウが遅れてしまった。駅到着寸前のモノレールを駆け上がり、再びレースに突入。一定の距離を保ったまま、二人は数分間でレール上を何百周もした。
「このまま鬼ごっこを続けるのか? レールが磨耗し、消失するまで」
「それは俺も好きじゃないな。安心しろよ。これで決めてやるから」
ピタリと、ボーイの脚が突如止まった。
「なんだと!?」
思わず、何もせぬままキリウは追いぬいてしまう。戻るよりも、一周した方が速いと、キリウが足を止めることはなかった。駅に到着し、乗客がほぼ全て降りたモノレールを飛び越える。キリウの跳躍力があれば、車両のひと跳びぐらい簡単なことであった。
着地寸前、キリウはバレットボーイの姿を確認する。ボーイは、クラウチングスタートの体勢を取っていた。ボーイが何やら大技を狙っていることは、初見で理解できた。
横に避けるにしても、もはや間に合わない。せめて、もう少し早く、ボーイの体勢を見ていれば。ここまで考えた所で、キリウは間違いに気がついた。線路上に居座るモノレールのせいで、ボーイの体勢は隠されていたのだ。車内に取り残された人を気遣いながらも、影でモノレールの車体を隠れ蓑にする作戦を立てる。
バレットボーイは工夫が足りないとアブソリュートが言っていたが、なんの知恵はあるし、戦闘中でも無辜の民への気配りを忘れない心遣いも出来ている。ここに来てようやく、キリウは己の心中にある違和感の正体に気づき始めていた。レール上に、足を付ける寸前に。
「そうか、そういうことだったのか!」
難問を理解できた感動を思うがままに吐き出すキリウの腹に、超光速の矢と化したボーイが突き刺さる。この速度は、キリウですら出せぬ速度であった。未知の感動を眼にし、思わずキリウは、超光速にされるがままとなってしまった。二人は全てを超える速度で、退去完了後、無人のモノレールを貫通する。おおよそ、コンマの秒数で出来た、車体の大穴。超光速は、そのコンマで止まってしまった。
己を取り戻したキリウが、足に力を込め、ボーイのタックルを止めてしまったのだ。未だ二人は地球一周コースどころか、レールすら下りていない。
「とっておきも、効かねえのかよ……。速さも、敵わないだなんてな……」
抑えられているボーイが、呆れと絶望を口にする。おいそれとは使えぬ最奥の手が、防がれてしまった。アインより強い相手であるキリウならば、出しても大丈夫とは踏んでいたが、まさかこうして防がれてしまうとは。モノレールを突き抜けたダメージなぞ、彼女には端程度の物だろう。
「それは違う」
ボーイの自信の揺らぎを支える物は、思わぬところから出てきた。
「速さの一点だけで見れば、余は君に負けた。こうして止められたのは、速さ以外の物でしかない」
キリウの、真正直な評価だ。
レールと、レールを支える鉄橋が揺らいでいる。キリウは速さではなく、脚力でボーイを抑えきった。超光速を抑えるという負担は、モノレールの構造設計上全く考慮されていない物であった。揺らぎを受け止められぬまま、支柱が歪み、レールが徐々に下向きに動いていく。
「ありがとよ。なら、もうちょっと、頑張ってみようか!」
ボーイはキリウの手を振り払うと、そのまま殴りかかろうとする。そんなボーイの手を、キリウは容易く捕まえた。キリウの金色の目が、ボーイを射すくめる。妙な硬直を感じたボーイの身体が、急速に自由と力を失っていった。
「一応、最後の確認を」
キリウの手が、バレットのマスクに伸びた所で、二人の居るレール部分が丸ごと崩落した。
空撮中継で状況を見守っていたファクターズの面々も、引継ぎを終えウェイドシティに駆けつけたオウルガールも、レールの破壊に遮られ、二人の戦いの結末を見届けることが出来なかった。