日々雑談~5765~

 これほど静かな正月三が日は始めてだ……というくらいに、大人しくしておりました。いつもだったら飲んだくれているものの、最近は飲酒を控えているので、それもなあと。結果的に、状況も行動も内臓も大人しいことに。体内時計が早起きに寄ったこともあり、これほどまでに健康寄りな新年ははじめてかも知れない。世間がコロナに脅かされている今、あくまで個人の問題でしかない上に、感染した瞬間に崩壊する砂上の楼閣ですけどね。それでも、なるたけ砂は積んでおきたい。むしろ砂もなかったら、更に大変だよ。

 

K.N.ジャスティスマンは塩なのか?

 というわけで、新年初の更新となったのは、キン肉マンの記事でした。キン肉マンの記事でもあり、プロレスの記事でもあり。というか、いいレスラーやいい試合の判断って難しいんですよねー。自分が目立ってナンボなら、相手を立たせる名勝負製造機の藤波辰爾の評価は低くなるし、相手を輝かせてナンボなら、相手の光をかき消す勢いでまばゆい武藤敬司はどうなの?となってしまう。観客が金を払いたくなるレスラー、プロモーターが使いたくなるレスラー、どっちかに該当すればまず一流って考えていいのかなあ……。

 しかしキン肉マンは漫画であり、レスラー兼プロモーター兼マッチメーカー兼その他諸々と、興行のほとんどをゆでたまご先生が動かしているわけですが、実際のプロレスとなると、今挙げた全部の役職に自我が入るから更に大変だよ。レスラーが言うこと聞くかどうかもわからんし、きっちり仕事をこなすかどうかも確率論。100%出来る人間でも、言う事聞かなきけりゃアウトなわけで。でも、漫画は漫画で、浮くも沈むも作者にほぼ委ねられると、これはこれで大変なのですが。どこも楽じゃない、この一言に尽きますね。

K.N.ジャスティスマンは塩なのか?

 新シリーズ超神編が現在連載中のキン肉マン。旧作キャラが活躍する中、ザ・マンやサイコマンといった新キャラも負けない魅力を放っているのが今のキン肉マン。その中で、強烈な強さを持ちつつも、レスラーとしての評価に疑念を持たれている超人、その名はジャスティスマン。ネットではしょっぱいと言われている彼ではあるものの、果たして彼は本当にそうなのか。未だ完結はしていない作品ではあるものの、現在ある情報で分析してみようというのがこの新年一発目の記事。なお、タイトルのK.N.の意味は、KIN.NIKUです。タイトルを最終鬼畜始祖ジャスティスマンにしようかどうか、ちょっと悩んでました。なんで東方、しかも妹様を使ったのかは、新年の魔力(ヒント:お屠蘇)でちょっと覚えてないですね。

 まずはジャスティスマンの概要を下に書いておきます。知ってる人は飛ばして、これだけではまだという人はググってくださいというか、キン肉マンの単行本を買ってください。

 

 ジャスティスマン。キン肉マンの新シリーズ『完璧超人始祖編』に登場した『完璧・陸式(シックス)』の座に就く完璧超人始祖。旧シリーズ『黄金のマスク編』に登場した裁きの神ジャスティスと同一人物であり、ゴールドマンやシルバーマンと並び読者にとって既知であった数少ない始祖の一人。

 完璧超人始祖編では魔界の王族であるアシュラマンと、ジャスティスマンがあえて選んだアシュラマンのホームグラウンドである魔界で対決。悪魔超人のエースに相応しい実力を持つアシュラマンの必殺技や得意技、亡き悪魔超人の総力による一撃すら受け止め、真正面より叩き潰す。

 次戦となった許されざる世界樹での決戦では、アシュラマンの好敵手であり彼の仇討に燃えるテリーマンと対戦。長年の熟慮、アシュラマン戦の体験、直前に起こった仲間の敗北やクソ力の発動。心には若干の迷いが生じており、自身に勝てば考えを改めても良いとテリーに告げる。だが、その宣言にはわかりあうことへの暖かさ以上の、テリーマンを殺す気で戦うとの非情さも付け加えられた。宣言通りの猛攻、希望すら微塵も残さないためにあえてテリーマンの弱点である義足を狙わない完璧な勝利を目指すものの、義足を自ら破壊することで生き延び、戦闘不能となっても戦意を捨てないテリーマンの姿と彼が集めている憧憬により、正義超人たちが始祖とは違う形の永遠を持っていたことを知る。ジャスティスマンは、自身の所有物である神器、光のダンベルをテリーマンに渡し、敗北を認める。始祖全員が持ち、全て揃えれば始祖が消滅してしまうダンベルを渡す。それは、自身の消滅も認めることでもあった。

 試合放棄後、完璧超人始祖の長である超人閻魔と決別。ついにダンベルが揃ってしまうものの、サイコマンの犠牲により生き延びる。自らの正義、生き延びた意味を求め試合会場より離脱。以後、完璧超人始祖編からジャスティスマンは姿を消す。

 次のシリーズである『オメガ・ケンタウリの六鎗客編』ではキン肉マンを密かに支援したものの、基本的には事態を静観するスタンスを取る。新世代の超人たちの争いに関わる気は無かったものの、旧世代最低の代物であり、今回の一件の黒幕であったサタンの顕現が彼をリングに呼び戻す。サタンは自らの恵体を活かしたパワーファイトを見せるが、ジャスティスマンはすべて受け止めた上で、サタン以上の苛烈な攻めにより、文字通りサタンを粉砕。サタンの生命を奪うまではいかなかったものの、しばらくは表に出てこれないほどのダメージを与える。

 サタンを撃破したジャスティスマンは、この事件に関わっていた正義超人や六鉾客ら新世代の超人に、本来ならば自分たち始祖が戦うべきであった真の黒幕の存在を告げ、真相を伝えるために超人墓場へ彼らを導く。超人墓場にて、厳格なる超人閻魔から脱却し、かつての慈悲や柔軟さを取り戻していたザ・マンと和解。最大の敵『超神』の存在を明らかにする。

 ファイトスタイルはとにかくシンプル。特殊能力はほぼ使用せず、打撃、投げ、関節技、どの技にも外連味は無い。だが、数億年の間、真摯に鍛え上げられた肉体には恐ろしい破壊力が秘められており、相手を両断する勢いの打撃、受け身も取れない強烈な投げ、一瞬で相手を破壊する関節技と、どれも殺人級の威力を持つ。ジャッジメント・ペナルティやジャッジメントクラッシュやジャッジメントアヴァランチャーといった一連の裁きの技は「相手の肉体を破壊し、徐々に相手の力を削いでいく」ザ・マンの教えを感じさせる技であり、悪魔将軍(ゴールドマン)の地獄の九所封じに通じる構成となっている。鍛え上げられた肉体は防御面でも効果を発揮し、肉体自体の硬さと思いもよらぬ柔軟性は、アシュラマンやテリーマンやサタンの必殺技をなんなくしのいでみせた。

 すでにミラージュマンやアビスマンを撃破し、始祖の中でも頭一つ抜けている強さを見せた悪魔将軍にすら「かつてのザ・マンに近い」「倒すには少々骨が折れる」とまで言わせた実力を持ち、正統派ゆえアシュラマンやテリーマンの奇策に一撃を食らうシーンはあったものの、持ち前の防御力でダメージを最小限に抑えてみせると、今の所作中で目に見えた弱点はなく、大きな怪我も負っていない。

 ただし、冷静沈着で淡々としたファイトと会話、作中で「地味なファイト」と称されることもあわせ、ファンの間では相手に合わせる気のない、しょっぱいレスラーや塩試合製造機のような評価も受けている。

 

 そもそも、格闘技におけるしょっぱいとはどういう意味か。元々、しょっぱいとは相撲における用語の一つであり、塩のまかれた土俵に這いつくばっているような弱い力士を指す言葉でした。日本のプロレスは始祖である力道山が相撲出身であることもあり、チャンコやかわいがりのような風習とともに、しょっぱいという表現もプロレスに輸入されることとなりました。しかし、プロレスラーの勝負の相手は観客ということもあり、しょっぱいの意味は観客を盛り上げられないレスラー、要はつまらないレスラーを指す言葉へと変じていったわけです。芸能界で素っ気ない対応を塩対応と呼んだり、格闘技の膠着状態を塩漬けと呼んだりと、むしろ今は、相撲の弱いという意味より、プロレスのつまらないという意味のほうが一般的ですね。

 まず、つまらない試合の点から考えていくと……そもそもジャスティスマンの試合って、ネットの感触や感想を観る限り盛り上がってるんですよね。どんな形で盛り上がったのかの話は後に回すとして、少なくとも盛り上がってる以上、しょっぱいの範囲からは外れています。これはプロレスだけでなくどんな創作やスポーツも一緒なんですが、つまらない試合はそもそも無風です。感想もなく、歓声もない。無です、無。実際、虚無のつまらない試合は、自分も何度もプロレス会場で観てますが、あの冷え切った空気はなんとも言えない虚しさがあります。実際、ジャスティスマン関連の試合が無だったら、合計数カ月間ほど虚無となるわけで、いくらなんでも連載がピンチです。

 ならば、ジャスティスマン自身がしょっぱいのか。俗に試合運びが単調なレスラー、パフォーマンス控えめのレスラー、技が地味なレスラーなどがそう呼ばれる傾向にあります。これらのレスラーをしょっぱいレスラーと定義した場合、ジャスティスマンはこの三つのすべてに該当してしまいます。なんだよ、結局しょっぱいんじゃねえか。こう思わざるを得ない流れですが、実のところ自分は、この定義自体はしょっぱいレスラーの傾向として正しいものの、それがイコールしょっぱいレスラーになるとは思っていません。

 

 無法なパワーファイターとして受け身上手な全日本のレスラーに全力を発揮していた、人気外国人レスラーであるスタン・ハンセンとスティーブ・ウィリアムス。そんな無骨な二人の攻めっけが噛み合わない対決を観たジャイアント馬場は解説席でこう言いました。僕は、この人達が何をしたいのか全然わかりません。

 レスラーにとって大事なのは、自分自身が何物であるか、試合のテーマは何か、試合を通してわからせる。この点にあると思います。この見る側にどう理解してもらうかというテーマは、創作に通ずるものがあります。たとえば正義の日本人レスラー対悪逆の外国人レスラー、この試合で師匠超えを果たそうとする若手レスラー、俺はお前の噛ませ犬じゃない!と格の違いに挑むレスラー、路上にて創意工夫を武器に戦うレスラーたち、このような個性や構図がある試合や興行は観客の思い入れや熱狂を招き、時には伝説、時には団体の大きな成長のきっかけとなってきたわけです。

 そして視点としてあるのが、試合、複数の試合による興行、興行が並ぶシリーズ、この三つの視点。もっと先の団体運営やジャンルの全体図までいれるとキリがなくなるので、この辺にしておきます。キン肉マンで例えると、ジャスティスマンVSアシュラマン(試合)、完璧超人始祖VS悪魔六騎士(興行)、完璧超人始祖編(シリーズ)といった感じです。この三つの視点で見ると、例えば悪役レスラーの乱入で試合がめちゃくちゃになり低評価だった一方、この乱入が伏線となり興行やシリーズの軸となっていった。対抗戦メインの興行は盛り上がったものの、そこで熱くなりすぎてしまい、シリーズ全体で見たら盛り上がりに欠けた。このように大局的な分析をすることも可能になります。このような視点は、連載や連続ドラマのような続きがあるメディアには形は違えども必ずあるものですね。

 では、ジャスティスマンの三つの試合にはそれぞれどのようなテーマや視点があり、ジャスティスマンには何が求められていたのか。分析してみましょう。

 

VSアシュラマン
 ジャスティスマンの作中デビュー戦となったこの試合。完璧超人始祖対悪魔六騎士の戦いとして見ると、完璧超人始祖視点では五戦を経て二勝三敗と負け越しを避けるため落とせない一戦であり、シングマンとカラスマンがサンシャインとザ・ニンジャに喫した二連敗を三連敗にしないための重要な一戦だった。ここで三連敗となると、完璧超人始祖が悪魔六騎士相手に負け越しとなり、勢力全体のイメージ、完璧超人始祖編を引っ張っていくだけの格も疑われる事態もありえた。

 アシュラマンは悪魔六騎士だけでなく悪魔超人のエース格であり、状況的には三連敗の可能性も0ではなかったものの、この暗雲は裁きの神ジャスティスの登場で一気に振り払われた。強豪であるアシュラマン相手に実力を示しつつ、裁きの神ジャスティスの格も保たなければならない。このハードルを、ジャスティスマンは必要以上に超えてみせた。この試合でもっとも必要だったのは、完璧超人始祖はやはり強い! と思わせ信頼を取り戻せるくらいの無法なまでの強さだったので、冷徹な強さによる圧倒はこの条件に合致していた。

 

VSテリーマン
 全日本プロレスにてブッチャー&シークの極悪コンビを相手に、血まみれになりつつ溢れるガッツで戦っていたアイドルレスラーことテリー・ファンク。後にテリー・ファンクは一度の引退後、ハードコアの始祖とも呼ばれるなんでもありのテキサン親父になっていくものの、テリーマンはアイドルとしてのテリーをモデルに生まれ、そのまま成長しやがて引退となった、テリー・ファンクのリリィにして一種のオルタである。話がそれたので戻すと、テリーマンの魅力は凶悪や強大さに挑むガッツにあり、ザ・魔雲天やキング・ザ・100トン戦で見せた巨漢ハンターぶりに、アシュラマンやヘル・ミッショネルズといったボスクラスに挑む姿と、相手が大きく格上であればあるほど、光る物を見せてくれる。この点において、ジャスティスマンは過去最大の格上であり、試合結果も含めテリーマンしか挑めぬ敵だった。KO無し、消化不良の決着とも言えるが、後の展開や先のシリーズのことも考えると、これで良かったとも思える。

 強大なジャスティスマンに対し、テリーマンは正攻法や奇策を交え挑むものの、最終的にその身体を削ることは出来なかった。だが、自身の義足(実質現役レスラーとしての引退)を賭けて戦う姿は、多くの観客、さらにジャスティスマンにもテリーマンの真骨頂とともに現代の正義超人の覚悟と有り様を伝えることになり、それがジャスティスマンの試合放棄へと繋がった。この試合を動かしたのはテリーマンだったが、既に強豪であるテリーマン相手に最強の壁として立ちはだかり、衰えを見せぬままテリーの全てをさらけ出させてみせたジャスティスマンも十分に評価できる。実際、上に噛み付くこと、抗うことでのし上がってきたレスラーは、自身が大物化し上に立つことでアイデンティティを失う例もある。Ⅱ世の究極の超人タッグ編におけるキン肉マンやテリーマンも伝説超人として万太郎たち新世代超人の壁になることを期待されていたフシもあるが、壁としては上手く回らなかった。ある意味、ジャスティスマンはⅡ世で出来なかったことへの再挑戦にも思える。

 全盛期のレスラー相手に壁となるのは、想像以上に大変なのだ。

 

VSサタン

 上記のアシュラマンやテリーマンは対抗戦でありつつ若手レスラーを試す面もあったが、今度の相手は対抗戦かつここで叩き潰さなければならないゴミ屑である。最初、サタンは黒幕でありラスボスと思われていたため、少なくない人間がジャスティスマンが噛ませ犬になることを危惧していたものの、一週間経つ度に「ジャスティスマンは噛ませではない」「むしろサタンが危ない」「頑張れー! サタンー!」と状況が反転していった。これぞまさに、リアルタイムならではの旨味。いわば、新日本VS∪インターの対抗戦や、たけしプロレス軍団の新日登場と観客の暴徒化といった、歴史のターニングポイントに居合わせたかのような体験。このタイプの面白さは、十年経っても語れるネタである。

 相手の実力を自分の身で図りつつ、倍以上のカウンターで叩き伏せる。ジャスティスマンのこの戦法をラスボス相手にやったらシリーズごと評価が落ちる、もし団体対抗戦で行った場合、相手団体のレスラーが実力人気ともに大ダメージを負いすぎて立ち上がれない事案である。いろいろな意味でやってはいけないやり方なものの、困ったことにサタンは実は真の黒幕にたどり着くまでの前座であり、勢力下にあるはずの悪魔超人から離れたフリーでもあったのだ。そして更に潰すべき汚点。ジャスティスマンが全力と無慈悲さをここまで出せる相手もそうそういない。サタンが多弁で感情的であるところも、必要以上の喋りも感情も見せないジャスティスマンと噛み合っていた。感情的な点はアシュラマンもテリーマンも同じな点を見るに、ジャスティスマンの戦う相手が感情的なのはカード編成の基本路線なのだろう。

 後に明らかになることだが、真の黒幕は調和の神が率いる超神であり、完璧超人始祖は彼らと戦うために鍛え上げられた集団だった。サタンが超神の走狗であった以上、格下であるサタンにジャスティスマンがもし苦戦していたら、今頃は走狗と同レベルの超神もしくは格下に苦戦する始祖と、どちらかの勢力が風評被害を被っていただろう。ジャスティスマンが強さを発揮することで、始祖と仮想敵の超神は価値を落とすことなく、またこんなに強いジャスティスマンに挑んでいたアシュラマンとテリーマンの格も上がった。ついでに、ジャスティスマンを吐血させたことで、フィジカルには見るべきところがあったと、サタンの格もちょっとだけ回復している。最終戦でありつつ、次シリーズの前座試合でもあると、非常に珍しい状況のカードでもあった。

 

 以上の分析を踏まえて、自分としての結論は……。

 ジャスティスマン、与えられた仕事やテーマはきちんとこなしているし、しょっぱくはないのでは。

 だいたい、ここに収まります。もちろん積極的に動いたテリーマンやサタンが試合を動かさなければ駄目だったのでは? という見方もありますが、気合が入りすぎて駄目になる試合もプロレスには結構あるんですよね。片方だけが頑張っても、上手く行かないことはある。入れ込みすぎた結果、すれ違って噛み合わない。片方が暴走状態に陥って、観客が観たいものが見れない。頑張りは尊いものの、大事なのは成果。残酷な現実であり、だからこそ成功した場合は、気合を受け止める側の器量も評価されるわけです。

 もし現実のレスラーでジャスティスマンに似たタイプを上げるとしたら、三沢や小橋の壁となっていた頃のジャンボ鶴田かなと。全盛期を迎えようとしている三沢たちを相手に、高い壁として立ちはだかったジャンボ鶴田。この頃の鶴田はとにかく全力で、とにかく無慈悲。三沢が勝つことがあっても、その勝利のイメージは辛勝。一人で壁として立ちはだかったからこそ、この時期の鶴田のニックネームは名実ともに「最強」だったわけです。ジャンボ鶴田の相手を殺さぬよう務めていると公言する価値観、ジャパンプロレス勢や新日本ドーム大会での外敵への強さや上手さ、一歩抜きん出た才能を持ちつつも創始者やリーダーにはならなかった点と、この点も独自の価値観を持ち、外敵であるサタン戦で強さを発揮し、ゴールドマンやシルバーマンのような創始者にならなかったジャスティスマンと被るところがあるかと。

 あと、シンプルな話、三つの試合が盛り上がった上に、おそらくジャスティスマンの四戦目があったら、とんでもなく盛り上がるのは確定事項なので。客を呼べる時点で、レスラーとしては優秀なのです。相手の技を受けても表情を崩さないというのも、個性の一つ。レスラーは技を受けなければならない、表情で痛みを伝えなければならないというイメージがありますが、ザ・タイガー(佐山サトル)がロープに振られてそのまま止まったことで「この団体はお決まりが破れるんだ!」とのメッセージを観客に伝えたり、相手の世界観においそれと乗らないことを個性として発揮している鈴木みのると、受けないことや乗らないことでも個性やメッセージを発信できるのがプロレスです。

 そもそも、伝説級のプロレスラー、今でも社会的な知名度が在るプロレスラーでも、人によって評価が変わるのがプロレス業界。有名でありつつ立派な成果を残しているものの、一部からの評価がボロクソな大仁田厚は評価がまちまちな例の一人でしょう。それに、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の三人だけでも、それぞれがレスラーとして重きを置くポイントは違いますしね。この記事も、あくまで自分の見方であり、その見方だとイメージで思われているほど、ジャスティスマンはプロレスラーとしての適性は低くはないとの結論になりました。こうやって多角的に見れるだけの個性がある時点で、まずキャラクターとして完成度が高いってのは間違いないでしょう。

謹賀新年

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします
 最近、更新ペースが落ちておりますが、なんとかこちらにも尽力できるよう努めていきます。

 長い間、当サイトを観ている方はわかると思うのですが、実は今回、十数年ぶりに家で年越しをしております。毎年、昔なじみと集まって外で年越ししていたので、毎年だいたい帰宅してからの更新、もしくは予約投稿だったんですよね。今年はコロナ禍ということもあり、集まりは延期。なのでこうして自宅での年越しとなりました。

 去年の災禍はコロナ、そして新年になったからと言って消えるものではない。ですが、今年の早い段階で消えてほしいと祈ることは出来る。皆様の健康をお祈りしております。

 努めるとか言って、こんな体たらくな時点でアウトじゃない?って感じなんですが、なんとか元日にはアップするようにします。内容は、あるキャラクターの考察ネタだよ!

日々雑談~5764~

 昨日、仮面ライダーゼロワン REAL×TIMEを観てきましたが、一日経って思い出してもやはりよかった。作品のテーマでありキーワードであるヒューマギア関連の話はひとまず終えて、超科学のある世界の仮面ライダーとしてリスタートをきったのがよかったのかもしれない。流石にイズや滅亡迅雷ネットの面々は出てきたけど、ヒューマギアは(REAL×TIMEの)キーワードではなかったし。

 今回はコロナの影響もあってか、要所要所の集合はあるものの、或人班、不破班、サウザー班のように分けて撮っているのがわかる作りでした。例えば或人は、サブライダー勢と殆ど顔を合わせてないですし。ただ、同時進行で起こっている事件を舞台にしたことで、各地の動向という形で別撮りで生じそうな違和感を緩和していたのは匠の技。コロナ禍における新たな撮影スタイルとして残しておきたい。

 仮面ライダーセイバー 不死鳥の剣士と破滅の本は流石に短すぎてねえ……。短い時間でライダー映画の要所要所は抑えていたものの、台詞が若干多すぎた気もする。次に期待としか言いようがないなあ。次までに、コロナが落ち着いてくれねえかなあ!

日々雑談~5763~

 すみません。ここ最近、体内時計を朝型に変えた影響もあり、更新が滞っております。
 今まで深夜にやってた更新時間が、まるっとすっ飛ぶのにどうにも慣れておらず……現在、修正を図っている最中です。

 

 鬼滅に乗っても、「あの野郎、やりやがった!」ではなく、「やっぱやったなー」ぐらいなのは人徳なのかそうでないのか。その場合、まず俺たちは銀魂の存在から考えなくてはいけない。銀魂の野郎、映画本編でも鬼滅に絡む気満々だし、むしろここまでお膳立てしてやらなかったら観客が困るだろ!

 自分とは相容れなくても、単なる悪とは違う芯があると分かってくれれば、しっかり当人を尊重してくれるのがキャプテン・アメリカ。たとえば、キャップ当人はなるべく人殺しを避けたいと思っているものの、それでも被害が出てしまう現実や、殺しも手段の一つとして使っているウルヴァリンとの友情もあるわけで。というか、殺すべきか殺さぬべきかのような正解がない難題に対し、自分の考えこそベストだって押し付けてくるやつ、いくらまっとうでも嫌な奴じゃないですかね……。押し付けてくるタイプのバットマンはさ、また別の語り口になるけど、基本嫌なやつだし。バットマンは嫌な奴であることもまた良しとしているので、アレはアレでいいのです。

 閑話休題。
 
 あと個人的に「おっ」と思ったのは、今回の話で引かれた、どこまで出していいかのラインかな。
 流石にマーベルの内部事情まではしらないけど、ゲームやアニメや日本でのコミカライズで、コイツ出てこないんやなあと薄々察してしまう瞬間はあるので。カテゴリーとしては、だいたいこんな感じ。

 アベンジャーズ(MCU)勢、スパイダーマン関連、X-MEN、ファンタスティック・フォー

 少なくとも今回の話で、(どこまで出演していいかのラインは不明なものの)ファンタスティック・フォー以外は居ない子扱いにならないというのはハッキリしたわけでして。あと、X-MENはデッドプール当人も出てるし、ジャガーノートもちょっと出てるじゃん!というのはあるものの、二人とも本国だとミュータントじゃないよね?いうことでX-MENのラインから外れてきてるし、ディスクウォーズに出てもX-MENと全く絡まなかったり、フューチャーアベンジャーズにデッドプールが単独で出たことも合わせると、こいつらX-MENとは別カテゴリーなんじゃ……? と思ってしまうとこもちょっと。

 国際基準に合わせたらカットされそうなジャンプネタな鬼滅もOKだったわけですし、マーベルのデッドプールに対する許容範囲は、やっぱ広いのかもしれない。