耳をすませば
「わたしね、死んだおじいちゃんの声を聞いたの」
山で数日迷い、山小屋に辿り着いたことで助かったクラスメイト。
奇跡の生還と騒がれて数カ月後、もうみんなが忘れ去った頃、彼女は僕に、こう囁いてきた。
「暗い森の中で、もう駄目なんだ、死んじゃうんだって諦めていた時に、おじいちゃんの声が聞こえたの。こっちだよ、こっちだよって。最初は幻聴かと……ううん、ぜんぶまぼろしだったのかもしれない。それでもわたしは、その声がする方に向かって、歩いていって助かったの。だからアレは、亡くなったおじいちゃんの声なんだ。おじいちゃん、わたしに優しかったもの」
本人が信じている以上、僕に言えることは何もない。助かったという現実を前にしては、たとえ心霊否定派でも口ごもるしかないだろう。彼女は僕の目をじっと見て、再び語りかけてくる。
「追い詰められた時に、死んだ人の声を聞いて助かった人って、けっこういるんだって。雪山で遭難して、洪水で車に閉じ込められて、地震で瓦礫に飲み込まれて……そんな時に、居ないはずの人の声に導かれたり励まされたりして助かる。なんだか、ステキだと思わない? ああ、あの人は見守ってくれているんだ。そう考えるだけで、あったかくなるよね。謎の声に騙されて、危うく死にそうになったって話に比べて、助かった話はずっと多いし。世界は優しいね」
そう言って、彼女はにっこりと笑う。時刻は放課後、場所は夕日の差し込む教室。きっと、彼女が想う暖かさとは、夕日のやわらかな明かりに照らされる、その笑みのようなんだろう。なんだか、僕の心も暖かかった。
「……なんて話があったんだ」
「ふーん」
自宅での夕食時、彼女の話を聞いた姉さんの反応は、そっけなかった。こういう霊や幻といった言葉が出てくる話は、好きなはずなのに。怪訝そうな僕の顔に気づいたのか、姉さんは頭をかいてから、気まずそうに口を開いた。
「追い詰められた時に死んだ人の声を聞いて助かったって話は結構出回ってるし、それ自体は良い話なんだけど……。人が弱っている時を狙ってくる輩は、霊だろうが人だろうが、とにかく多いからね」
姉さんはうーんと悩む素振りを見せてから、再び口を開く。
「謎の声に導かれて助かった話が騙された話に比べて少ないって、それは騙された人が話せる状況にないからじゃないかな。なんとかに口無しって言うじゃない?」
台無しである。
薄々、気づかなかったわけじゃないが、そんなこと言えるわけがなかった。本人がこの場に居なくても、ちょっと言えるセリフではない。
「とりあえず、姉さんと彼女がうっかり会わないよう、全力を尽くすよ」
僕に言えるのは、これだけだった。この二人は、きっと性格も合わない。
「うん。それがいいね。こんなひねくれ者と、会わせちゃいけない」
姉さんはクスクスと笑い、手にしたビールの缶をあおった。
中が空いた缶を捨て、姉さんはどことなく遠くに語りかけるように話す。
「私は、善も悪もある雑多さが世界だと思ってる。でも、まず世界の輝きや優しさを信じる彼女の心も美しいなって。そんな彼女が追い詰められていたら、たとえ自分が天国に居ても、なんとか助けようと必死になるだろうね。おじいちゃんの声は、間違いなくあったんだよ。そして聞けたのも、彼女だからさ」
きっとひねくれ者の自分は、追い詰められた時に救ってくれる声は聞こえないだろう。姉さんの寂しげな顔はそう言っていた。
「それも違うと思うよ」
思わず、声に出す。
「だって僕は姉さんが追い詰められていたら。必死で声を出すだろうし」
しばしの沈黙。姉さんはきょとんとした顔をしている。
「ああ……そうか、そうだね。でも年齢的に、きっと声を出すのは私。その時は、しっかりと耳を澄ませてね」
そんなこと言う姉さんの雰囲気は、放課後に見た彼女と同じくらいに暖かかった。