白糸が

 細い細い、ただ一本の糸が目の前にずっと垂れている。屋内に入っても建物を透過してきて、風が吹こうが雨が降ろうが、ピンと張っているままだ。
 ただ一人の前に垂れているのではなく、日本中の人々殆どの前に糸は一本ずつ垂れていた。
糸には触れられる、何故か己の前の糸だけを。他人の糸を見る事は誰にでも出来るが触れない。皆の目の前でプラプラしている。
 しかし糸は本人がいくら払っても、目の前にずっと垂れたままだ。あまりにしつこいのでノイローゼになる人もいたものの、相談される精神科医の目の前にも糸が垂れているので何とも言えない。
 結局人々は糸と付き合いを続けながら、謎の糸の答えをそれぞれ模索する他無かった。

 やがてある種の答えが出て、世間に大きく広まった。人々は仕事を放棄し、その答えに執着するようになる。冷静に考えれば都合のよすぎる考え方なのに、誰もがその答えにすがりはじめた。
 社会はいよいよ停滞した。

 目の前でプラプラしている糸を極力気にしないようにして、ゆかりは家路を急いでいた。糸が垂れて以来車も人通りも減る一方であるが無くなった訳ではない、糸など気にせずに生活を営んでいる強い人々は居る。そういう人に己の不注意で迷惑をかけるのは良くない。
 でもそれより気をつけなければいけないのは、地面だ。地面から目をそらしてはいけない。現に今も片付いてはいる物の、地面にあったものの痕である赤い染みを踏んでいる。染みはできるだけ避けるようにしてはいるが、場所によっては赤が多すぎて避けようも無い。踏まないと誓ってしまっては、外を歩く事もできなくなる。
 ひゅうと風きりの音がしてプチュリと柔く潰れる音がする。ゆかりはまたかと嫌な気分になってから110に電話をかけるが、いくら鳴らしても誰も出なかった。こんな事に構う気は無いのか、人手不足なのか。
 仕方の無い事と諦めて出来たばかりの染みを避けた上でなるたけ目を逸らし、ゆかりは立ち去る。さっきと同じ音が背後から聞こえてくるが振り返らない。気にしていては、家にいつになってもたどり着けないのだ。
 司法組織も開店休業の状態で言っても無駄であろう。しかし、糸の正体は極楽から垂らされた救いの糸だと言い出した人間は、きちんと裁かれるべきだと思う。
 なにせそんな風説が流布して以来、糸を無理に登っていき力尽きて墜落死する人間が多すぎるのだから。音は何処かしらからずっと聞こえ続けていた。

「ったく、そりゃあ誰だって人生のうちで蜘蛛ぐらい救ってるだろうけど、だからと言って全員に蜘蛛の糸が与えられるかね? たった一つの糸に浅ましく群がりたいよな、愚民としては」
 この人にだけは糸が見えていないのではと、疑いたくなるぐらいの平穏。でも本人曰く糸は見えているらしい。ゆかりの兄はどこか卓越した様子で、ゆかりに買って来てもらったビールとさきいかを頂戴している。ゆかりも差し向かいで彼の晩酌に付き合っていた。
「それにしても、この糸はなんなんだか。ゆかりにはコレが何に見えるよ?」
「糸ですね」
「うん、そりゃあ糸だよな。俺が聞きたいのは、どんな糸かってことだけど」
「そうですねー……美しい絹糸ですかね」
 白く輝く美しい糸、目障りではあるがそう汚いわけではない。そんな印象をゆかりは糸に持っていた。
「そうか。俺にはナイロンの鋭い糸に見えるんだけど、釣り糸に使うような。いやそれにしても、良かった。どうやら、二人とも登る気は無さそうだ。行幸行幸」
「絹糸じゃ糸本体が切れますし、ナイロンじゃ硬くてこっちの手が切れますから」
 二人ともそんな事を言ってから、気だるげに笑った。糸も心なしか揺れている。
「そういやさ、ゆかり。昔子供の頃、二人で釣りに行った事があるよな。河川敷に」
「ええ、覚えてます。兄さんが釣りそっちのけで石投げに夢中になって、対岸の釣り人のクーラーボックスに直撃して急いで逃げた事を」
「橋を使わないで、川を一直線にザブザブ渡って来る辺りで、あの人には言葉通じないなと思ったんだよ。顔真っ赤だったし。それはともかく、覚えているんだよな、だとしたらだ」
 兄は小指でピンと宙を弾いた。ゆかりには見えないがそこに兄の糸はあるのだろう。
「俺にはこの糸がその時の釣り糸に見えるんだ。馬鹿な魚を釣ってやろうと人間が笑いながら垂らす糸に見える。あの時は、糸が見えてるのに引っかかるなんて魚って馬鹿だなと思ってたけど、なんて事は無い。人間は餌も無しに引っかかってテメエで登っていくんだからさ」
 どうしょうもないと兄はかぶりを振っている。ナイロンの糸といえば釣り糸、兄の眼に糸がそう見えるのも仕方の無いことだ。兄は糸の先に希望や救いではなく、絶望や悪意があると信じている。
 希望を信じる人々に、絶望を信じる兄、ゆかりはどちらにも属していない。ゆかりの考えは、ただの虚無だ。釣りだとか救済だとか考えずに、上にいるモノはただなんとなくヒマがつぶせそうだからやってみた程度の動機なんじゃないかと、そう考えていた。カッコつけて言うなら、神々の暇潰しだ。
 糸一本で文明社会を投げ出そうとしている人間の姿は、傍から見れば随分と滑稽だろう。
「ったく、みんながみんな逝ったら、残された人間は何でヒマ潰せばいいんだ」
 兄は自分の糸で遊ぶのを止めて、TVのリモコンを手にした。TVだって最近は再放送をずっと垂れ流すだけだ。好みに合う番組なら、それなりに得した気分になれるが。
「あれ? この時間って水戸黄門の再放送じゃ……!?」
 珍しく兄は動揺を露にし、ゆかりも息を飲む。片隅に中継とだけ書かれた加工ゼロの生々しいTVの映像が伝えるのは、ただワケのわからぬ怖さであった。

 カメラが映しているのは、飾り気の無い無機質なビル郡に囲まれたオフィス街だ。ビルの間の大通りの中央で、糸に引かれる男にカメラのピントは合っていた。
 そう、登っているのではなく、引かれているのだ。糸を自分の身体に巻きつけた男は、ゆっくりゆっくりと空に引かれていた。こんなのは意図が表れて以来初めてだ。
 そして、人の山が男の下に群がっている。まるで蜘蛛の糸を登るカンダタに嫉妬する罪人の様に群がっている。男の足にしがみつく人間に下の人間がしがみつき……浅ましさの雪山である。中にはビルの窓や屋上から飛びつこうとする人間も居た。たいていが失敗して、墜落死している。
 ただ糸に引っ張られている男は静かなものであった。カンダタのように、救いに群がる人間を罵らない、只静かに糸に身を任せている。男は糸で首を括っていた。あんなに人が群れているのに男の身体が引きちぎれていないのは、糸の魔力のおかげか。
 やがて地面の何人かが己の首に糸を巻き始めた所で、兄がTVを消した。

「ハハハ! ハハハ! 大漁だぜ馬鹿どもがー!」
 兄はビールを一気に飲み干すと、気が狂ったように笑い始めた。本当に気が狂ってもおかしくない狂気がTVからは伝わってきていた。ゆかりとて危うい。
 しかし不思議な話だ。確かに兄の見方でも成り立つが、命を糸で捨てることが救済を受ける条件ならば、あの男は唯一神の救済を受けている事になる。もしかしたら吊り上げられた先は極楽で、男も蘇るかも知れない。糸の先が希望でもそれなりに話が成り立つのだ。
 ただゆかりはあの光景を見て、自説のヒマ潰し説が実は合っているのではないかと思い始めていた。正体も分からぬ物で命を絶ち、行く先も分からないのに群がり、正しいのかどうかも分からず真似て首を括ろうとする。傍から見れば、なんておかしな人々か。

 次の日から墜落死のブームは終わるが、首吊りのブームが始まった。何か他に画期的な糸の使い方が出るまで、このブームは続くであろう。

 糸は今日も目の前で揺れていた。