七夕にするべき誓い
「今日は七夕。だから、どうせ夜空は曇ってる」
人が七夕にかこ付けての、夜のデートに出かける時の、姉さんの言葉だ。人の浮ついた気分に冷水を浴びせてくれるとは。いくら自分が男日照りだからといって、そういうやり方はないだろう。
「私の状況なんて、どうでもいいだろうに。ささっ、彼女といちゃついてくるといい。今はまだ曇るかなーってぐらいだけど、そのうちきっと雨になる。間に合わせにあんまり遅れりゃ、フラれて悲しい涙雨だ」
付き合ってから五ヶ月くらいが一番危ないとか、バレンタインで付き合い始めたカップルは次の年のバレンタインまでに分かれているだとか、疑心暗鬼になるようなことを、散々吹き込んでくれる。
負けてたまるかと、思わず閉める扉に力が込められた。
予定の時刻より早く帰ってきた僕を出迎えたのは、部屋の中の夜空だった
マンションの一室が、満面の星空と化している。
「やあ、おかえり。お早いお帰りで」
解散が早くなった理由を知っているくせに、この挨拶。意地が悪い。
そんな姉さんは、壁に寄りかかり、ポテチを食べていた。
「どうしたの、コレ?」
「ん? いやねえ、どうせ今日は雨でしょ? だからコレ、借りてきた。コレがあれば、一人でも雨の日でも、七夕に求めるべき空が楽しめるからねー」
ちょんちょんと、姉は机の上に置いてある、家庭用プラネタリウムをつっついた。部屋の明かりを消して、外の灯りが入らないようにして。スイッチを押せばあら不思議、部屋が無限の大宇宙に。
最近のおもちゃは性能が段違いだと聞いてはいたが、実際目にしてみると、恐ろしいまでの日進月歩を感じる。昔のこういうおもちゃなんて、黒い紙にポツポツ穴を開けて、卓上ライトに巻きつけるレベルの物だったのになあ。驚くことに、現在の夜空は自転までしている。これはスゴいなあ。
「しかし、こんなに美しい夜空に、何故ダメでヘタれなカップルの物語を付け加えるのか。私には理解出来ないよ。現に今日も、催涙雨。下の連中は仲良くしているのに、なんで私たちはと流す涙。鬱陶しい」
厚いカーテンの向こうから、早期解散の理由である、夕立特有の激しい雨音が聞こえてきた。
「汝、病める時も健やかなる時も」
姉さんの口から、いきなり結婚式のお題目のような物が飛び出してきた。
「お互いに飽きた時も、仕事が忙しくてそれどころではない時も、他に好きな人が出来た時も、お互いを愛しあうことを誓いますか?」
これまた、随分と余計な物を付け加えて。
「そう聞かれたら、あとさき考えずに誓います!と言い切れば良い。それで済むのが若さの特権なのに、怠慢だね」
そして、何故か僕が怒られる。なんだよ、さっきの言葉、全部こっちに向けていたのかよ。
「独り身が独りで言って誓ってもしょうがないじゃない。虚しすぎて、なんとも。でもこの誓いを、軽く考えると、その災難は思いがけない方向でやってくる」
まあ、誓いだからね。世の中、神への誓いを、小学校低学年がする運動会の選手宣誓レベル以下で考えてる人もいるけどさ。ただやれって先生に言われて、意味の分からないまま棒読みするだけの誓い以下の。
「昔、知り合いの……女性のほうが先輩だったんだけど。知っているカップルが、彦星と織姫みたいな誓いを立てたことがある。遠距離恋愛で、一年に一度会うのも難しいけど、7月7日は織姫と彦星みたいに会おうね☆って、まあ後輩だったら頭ぶん殴ってやりたくなるような誓いを立ててね」
姉さんにしては、我慢の効いた話だ。条件反射的に、立場なんか忘れて襲いかかりそうなものを。
「実の弟にバーサーカー扱いされて、ちょっとヘコんだ。まあとにかく、先輩たちは一生の誓いを立てたわけだよ。若い身空で、よりにもよって、適当な神社の前で」
「それひょっとして、ヤバい神社だったとか? 祟り神や、もと処刑場みたいな」
よくあるオチだ。それで呪われて、二人はしっちゃかめっちゃかに。まあ何と言うか、良くある話ですよね。
「いや。全然。むしろ素晴らしい、霊験あらたかで祈願するに相応しい山奥の神社。色事に関しては最強レベル。というか、相応しすぎて困るんで、秘密にしてたんだけどね。どうも昔、酔っ払った勢いでちょっとヒントを口にしちゃったみたいでねー。ヒントを元に、ネットでググって、ああここだろうと当たりをつける。いやー、ネットって優秀よねー」
そこで先輩の執念深さや、探し当てた優秀さを褒めるんじゃないんだ。
「でも、それならいいんじゃないの? 愛しあう二人が祈ること自体は、別に問題ないでしょ」
「一生愛しあう二人なら、問題なしだったんだけど。別れたよ、一年も持たずに。問題はそれからでねー。誓いを立てた七月七日に、絶対合うようになっちゃって。偶然なんだけど、必然的に。なんで男に飽きっぽい性格してるのに、そういう神社で誓いを立てちゃうのかなー」
姉さんは、イラつきを隠さず、頭をボリボリとあらっぽく掻いている。多分きっと、その先輩に事の原因として攻められたか、それとも自体の解決策を求められたか。なんにせよ、その先輩との間で嫌なことがあったに違いない。
「でも、会うくらいならねえ。いいんじゃないの?」
「次の年、お互い別の相手とデートしているところで再開しても? 警察が出張るような別れ話になったカップルが、予約したレストランが偶然隣の席同士。お互い初めての店で、それぞれ偶然ネットや雑誌で目をつけて予約した店。もう笑うしかないでしょ、コレ。店はギスギス、みんなイライラ。二人とも、新しい相手とは別れたってさ。そりゃあ、上手く行く筈がない」
別れても続くだなんて、それはもう誓いではなくて、呪いに属するものなんじゃないだろうか。
「そりゃあ、誓いとはそういうものなんだから、仕方ない。一度交わした約定は、破ることまかりならん。だいたい、神様は約束されたことを果たしているだけだよ? 約束したのに、それを破棄したいって一方的な都合で言い出す方が悪い」
「そりゃそうだけどさ」
「神様はホント律儀よー? 次の年の七夕、お互い遊びに出る気も無く、女は独り部屋に篭って不貞寝、男はわざわざ残業入れて必死に仕事。お互い、かち合うわけもないのに、会わせてくれたんだから。そりゃあ、律儀」
「どうやって?」
「いやね。残業で疲れきっていた男が、帰宅途中に運転ミスって、アパートに車ごと突っ込んだ。突っ込んだのは、アパートの一階に住んでいた先輩の部屋。当然、怖さと人間関係を含めて没交渉の二人、先輩の引越し先を男が知る訳ない。もしちょっとでも寝返りでもうっていたら、家具ごとミンチになるところだった。ホント、ギリギリ。まるで何者かの力が働いてたんじゃないかってぐらいギリギリ」
「時刻は?」
「それがまた、七月七日の23時59分。いやー神様も、結構焦ったんじゃないかな。だから、こんなに荒っぽい」
神様も焦るんだねーハハハー。なんて笑えるわけがない。当事者たちにとっては、逃げられないと察した瞬間じゃないだろうか。お互いがお互いであることを知ったのは、果たしてどの瞬間なのだろうか。現場か、病院か、警察署か。
「まあ、実はコレ、去年の話なんだけどね。そして、あの二人に今年はない」
姉さんから渡された、ポテチの袋。思わず受け取ってしまったが、中に残っているのは二枚だけだった。虚しさとともに、二枚のポテチを齧る。
「今年は無いってことは」
「二人とも、死んだ。先輩は、厄払いの海外旅行で事故にあって死亡。男の方は、数ヵ月後……身投げだったよ。とにかく、愛を誓い合った二人は、愛も命も枯らすことになったのでした。おしまい」
なるほどね。これで終わりと。まあ、そう納得すべきなのだろう。もしこの先があったとしても。それはきっとろくでもないことだ。ならば、余計な口を挟まないのが、賢い生き方と言えるだろう。納得した。この話はこれでおしまいだ。
ところが、そうそう物ごとは上手く行かなかった。
「嘘つけ」
せっかくの賢い思考より先に、条件反射的にこんな言葉が口から出ていた。せっかくの賢さは後から追いついてくる。どうやら僕は、性根が賢くないらしい。姉譲りの小賢しさには自信があるんだけど。
「実の弟に嘘つき扱いされた、死にたい」
姉は小賢しく、嘘泣きをしていた。
「あいにく、おしまいで済むような話を、長々と話すような、心穏やかな姉を持った覚えはないのでね」
「こういう点を追求しない、いい感じで鈍い弟が欲しいなあ」
姉さんは部屋の空、ベガをじっと見つめたまま、言葉を続けた。
「場所も時も全く違うまま死亡した、二人の男女。でも実は、二人とも共通点がある。それはね、両方共死体が見つかってなくて、おそらく海に流されたことなんだ」
「男の人は身投げだって行ってたよね。海べりの断崖絶壁から、飛び降りたのか」
「先輩は、海水浴に出かけて、そのまま上がってこなかった。海にさらわれたのか、心臓発作でも起こしたのか。とにかく帰って来なかった。二人とも海に消えたんだ。嫌な気がした私は、一度だけ検証したことがある」
「何を?」
「海流の検証。川とは違い、海は内に流れを秘めている。専門家に話を聞いて、自分なりの計算式を立てて、海図とにらめっこして。結果分かったことは一つ、もし二人がそれぞれこのタイミングで行方不明かつ自殺になった地点で海流に呑まれていたとしたら、高確率で毎年七月の前半期に、海底で一度だけかち合う可能性が高い。かち合ったあとは、また海流に流され、再びかち合うのは一年後。海流は、廻り巡る物だからね」
そんなバカな。だいいち、人は不滅ではない。死体は腐るし、魚だっている。死体がそのまま、現存しているわけはない。
「流石の私も、海底調査船にツテはないので、あくまで実証無しの仮説。でも、考えるたびに思うんだ。先輩も彼氏も、それぞれ綺麗な死体のまま、年に一度、海底で会っているんじゃないかと。川の流れに阻まれた愛しあう彦星と織姫とは違い、海の流れのせいで愛しあってもいないのに年に一度、憎みあったまま会うハメになっているんじゃないかと。勝手にそんなことを想像してしまう」
空で愛しあう彦星と織姫とは違い、勢い任せの誓いのせいで、海の底で憎みあう二人。海は無限で、どんなものも在る。恨みの一つや二つ、たゆたう海は簡単に飲み込んでしまうだろう。
「ところで、彦星と織姫は飽きがこないのかな? 年に一度とはいえ、数千年に渡る話。いい加減倦怠期が来てもおかしくないと思うんだけど。もしかしたら、引くに引けなくなって、ごまかしたまま年に一度の逢瀬を重ねているのかもしれない」
プラネタリウムのスイッチを切る、姉さん。星空は消え、部屋は暗闇に支配される。言われるまでもなく、僕の手は電気のスイッチに伸びていた。
「泡沫カップルが軽く誓いを破っただけで海底行き。もし空の二人の愛が突然冷めてもういいやと誓いを破ったら、どれだけの災難が彼らに襲いかかるんだろうか」
それは多分、ただ彼らに思いを馳せているだけの、地上の人々をも巻き込むぐらいのものじゃないかな。
雨音が止んだのを耳で知り、カーテンを開ける。雲も消え、汚れを洗い流したかのように清涼な空。天の川に分け隔てられた、二つの星の灯りが、不自然なほど派手に点滅を繰り返していた。