空の境界 童夢残留~Ⅰ~

 ただ、通り道にあるスーパーでアイスを買おうとしただけだ。ハーゲンダッツの、ストロベリー味。家にある在庫が切れたので買っておこう、そう思っただけなのに、今、式は酷い目にあっていた。
 もし彼女の精神がこの小動物を忌避する性格であれば、今頃気絶していただろう。事実、騒動に直面してしまった人間の中には、男女問わず気絶している者がいる。残りは事態が飲み込めず、カタカタ震えている連中だ。式は奇しくも、唯一騒動に立ち向かう者になってしまった。
 カサカサと、陳列棚に乗せられた山盛りのジャガイモが揺れている。チューと鳴き声を上げて、中から牙を剥き出しにしたネズミが跳び出してきた。思わず気をとられそうになるが、コレは囮だ。本命は――。
 式は片手でネズミを払うと、即座に一歩飛びのく。寸前まで式が居た場所に、ネズミの滝が現れた。天井から数百匹のネズミが一斉に順序よく落下してきたのだ。ドドドと重く落ちたネズミたちは、分散し群れの長の元に向かう。長は菓子の棚の上に立ち、式を見下ろしていた。
「ほう、俺の友の動きを見切っているのか、人間!」
 そう言うネズミの長も人間だった。ゴム手袋に防毒マスクに薬臭い白い作業着と、まるで駆除業者のような格好をした男。彼にネズミは頭を垂れ従っていた。彼の横、訓練された軍人のように整列している。
「そういうおまえも人間だろうが」
「人間? 違う、俺はそんな下賎な生き物ではない。高潔なる友、ネズミを友とする……ラットキャッチャー! それが俺の名だ!」
 男、ラットキャッチャーはごてごてと化学用品が付いた棒切れを手に、高らかとイカれた宣言をした。
「まいったな」
 ただ、後悔に尽きる。なんでこんな人間と縁を持ってしまったのか。
「こいつは、とびっきりすぎるだろ」
 無理やり起源を当てはめるなら、“鼠”か。ラットキャッチャーはとびっきりだった。とびっきりで、頭のおかしい男。いつからこの街は、こんな変態が跋扈する街となったのか。まるで季節外れのハロウィンだ。
 平凡なスーパーは現在、ラットキャッチャーと名乗る犯罪者と、彼の率いるネズミ達の餌場となっていた。

 ラットキャッチャーと対峙する式。二人の様子を、監視カメラを介しスーパーの事務室から観察している一団がいた。
 首領格らしき二人の男を除き、彼らは羨望の瞳で対峙する二人を見ていた。
「うらやましいかい。凄い女と、成った男が」
 赤いフードにタキシード、滑稽な格好の男が皆に問いかける。みんな、カメラに集中して話を聞いていなかった。誰も男の問いかけに答えない。
「わからんな」
 先の男をフォローするかのように、もう一人の首領格が口を開く。
 筋骨隆々、レスラーマスクを被った大男。これだけならば只のレスラーなのだが、問題は男が背負っているタンクだ。男の背にあるタンクから伸びたチューブは、直接男の身体に刺さっている。タンクは緑色の明らかに有害な液体を、常時男の身体に送っていた。
「俺にはこんな物をみて興奮する、コイツらの気持ちがわからん」
 わからんと言いつつも、マスク男は映像を一番いい位置で凝視していた。羨望までとはいかないが、興味には満ちた目だ。
 ただ一人どうでもいい目の赤フードの男は、背を床に預けた。彼の足元では、店長は不自然なほどの笑顔を浮かべ死んでいた。

 数こそ力、ラットキャッチャーはそのことをよく理解していた。
 ネズミは円陣を組み、断続的に式に襲い掛かる。軍隊のごとき精錬された動きをネズミは軽く成し得ていた。ラットキャッチャーは一流の軍指揮官だ。ただしネズミ限定の。
「ハハー! なんだ大したことないじゃないか。全てが! こんなものが、全てだったのか!」
 防戦一方の式を見て、ラットキャッチャーは笑っている。先ほど異常を察し現れた警官二人を容易く追い払ったことも、彼に自信をつけさせていた。指を食いちぎられた警官は一目散に逃げ出した。彼が率いるネズミの恐怖は、警察という公権力を軽く凌駕していた。
 ただし、ラットキャッチャーは大きく勘違いしていた。警官は凌駕したが、両儀式という女性の一端も彼は目撃していない。ただ攻めあぐねる彼女を見て凌駕したと笑うのは、早計だった。
 世の中には、数でも敵わぬ力があるのだ。その力はまだ、ナイフを抜いてさえいなかった。
 式のジャケットの背に、ネズミが次々と食いつく。式はいやな目をすると、ジャケットを脱いで大きく振った。食い付いていたネズミも襲ってきたネズミも、ジャケットに蹴散らされ宙を舞う。
 流れるような動きで、式は再びジャケットを羽織る。彼女の手には既に愛用のナイフが握られていた。
 弾かれたネズミの全てが血を撒き散らし微塵となった。弾かれただけでなく、ネズミは全て切られていた。ラットキャッチャーに驚きと、友を無残に殺されたことへの怒りが宿っていた。
 方陣を組んでいたネズミが順序を捨て、一斉に式へと襲い掛かった。それどころか、ネズミが店のあちこちから次々と殺到している。ネズミの大雪崩、ハーメルンの街の住民でも、これほどのネズミは見たことがないだろう。カタカタ震えている観客の多くが、遂に気絶した。
 一閃、二閃、三閃。一気呵成の雪崩は三度切っただけで崩れ、ネズミの多くは惨死した。生き残ったネズミも、もはや動ける身体ではない。数の力は、死の具現により葬られた。
「ジャケットを噛まれるなら、さっさと斬っておけばよかった。害獣の血で刃を濡らして、ジャケットも噛まれる。最悪の優柔不断じゃないか」
 式はナイフの切っ先を、呆然とするラットキャッチャーに向けた。
「お、俺の友が。覚えてろ!」
 ラットキャッチャーは捨て台詞を言って逃げ出した。
「おいおい。友達を殺されたのにかたきを討たないのかよ……」
 式に追うだけの根気は残されていなかった。追い払ったものの、結局ラットキャッチャーの独壇場だった。このスーパーは果たして営業再開できるのだろうか。
 ネズミはコードをよく齧る。式の足元のコードも噛み千切られていた。千切れたコードの先はアイスクリームの冷凍庫に繋がっている。これではアイスは全滅だろう。最も、いまこのスーパーにある食品を食べる気はまったくしないが。ネズミの食い残しだ。
「グギャァーー!」
 断末魔より速く、ラットキャッチャーが戻ってきた。歩いてや走ってではない。まるで車に撥ね飛ばされたかのような勢いで、式の元へとすっ飛んできた。式は飛んで来た身体を避ける。ラットキャッチャーは特売品のネズミホイホイの山に突っ込んだ。
「あ、あの野郎……。まだ、まだ俺は、やれるのに……」
 粘着シートまみれのラットキャッチャーの胸がベコリとへこんでいた。巨大なコブシの跡、コブシの大きさからみて2メートル近い人間がラットキャッチャーの胸を思いっきり殴った。非現実ながら、そうとしか思えない痕跡だ。もはやラットキャッチャーは助かるまい。
 式は死にかけのラットキャッチャーの傍らに行くと、一言だけ聞いた。
「おまえ、いったいなんなんだ?」
 ラットキャッチャーはこう答えた。
「ネズミ使いの犯罪者、ラットキャッチャー。それ以上でも、ましては以下でもない……ッ」
 これがラットキャッチャーの遺言だった。派手で意味の分からぬ犯罪を犯した割には、あっけない最後だ。
「まさかな」
 式の頭に浮かんでいたのは、一人の人物だった。底抜けにお人よしの眼鏡をかけた男が、警戒心もなく笑っている。すごく、とても不安になる笑みだ。放っておけないと言うか、知らぬところで何をやっているか分からないと言うか。
「幹也が言ってた調べものって、コイツのことじゃあないよな。コイツのことだとしたら、一刻も早く遠ざけないと。頭おかしくなるぞ」
 黒桐幹也。彼はいま、橙子の命により出張していた。出掛けに、ついでに調べ物があると呟いて。

「ちょっとわたしの代理として、顔を出してきてくれないかしら。ちょっと顔を出すだけでいいのよ。ね?」
 あの人の言葉を信じた僕が馬鹿だったんだなと、幹也は達観していた。ちょっと顔を出すだけ、蒼崎所長は何度も言った。けどまさか、ちょっと顔を出すまでの間が、とんでもないだなんて。それに気づいたのは、黒桐幹也名義のパスポートを所長から笑顔で渡された時だった。
 アメリカ東海岸の都市、ゴッサムシティ。この街に住む変わり者の大富豪の元に行き、預かってきた書簡を渡す。これがお使いの内容だった。ちなみにこのゴッサムシティ、通の間ではヨハネスブルグを凌駕する危険地帯に認定されている。これを知ったのも、旅立つ数時間前だ。旅立ちを知った大輔兄さんは、いくばくかの選別と共に、なんまんだぶという祈りを捧げてくれた。
 しかしでも、ある意味良いタイミングでのゴッサム来訪でもあった。出張前に調べていたある物、それの発祥はこの地なのだ。この街の警察であれば、詳しい事情を知っているかもしれない。
 覚醒剤ブラッド・チップ亡き後、一気に自分の街を侵食した麻薬ヴェノムについての詳細を――