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オーバー・ペネトレーションズ#1−2

 細い指が、紙上の公式をなぞった。
「ここの公式を、こちらに代入すればいいんですよ」
「おおっ、なるほど。こうすれば、スラスラ解ける」
「でしょう? あなたは、一直線過ぎます。掛け算を使わず、足し算を連続して使うぐらいに」
「そこまで酷くは無いと思ってたんだけどなあ」
「いやいや、ヒドいですよ? でも、一直線なだけあって、きっかけを見つけた後の理解力は早い上に高いですねー。ウチの学校の先生は、きっかけよりもきっかけ後の過程をフォローするタイプが多いので、きっかけが必要なノゾミくんとは相性が良くないかもしれません」
「ふーん……ところでさ、質問なんだけど」
「なんですか?」
「なんでヒムロさん、俺向けに授業してくれてんの? いや、それ自体はすげー有り難いんだけどさ」
「保健室の授業って、ただずっと自習プリントやるだけですよ? そんなの、意味が無いじゃないですか。わたしはわたしで、お得なんですよ? 人に教えることというのは、自らを磨く、絶好の機会ですから」
「そうなんだ。じゃあ、もうひとつ聞くけど……俺の知っている保健室は、メキシカンソングが流れてて、そこらへんにサボテンのインテリアがあって、なおかつバーカウンターにこうやって座れる場所じゃないんだけど」
 保健室に連れていくと言っていたのに、そのまま学校外へ。着いた場所は、大通りの一本向こう側の裏路地にある、メキシカンバーだった。
 メキシカンバー“エル・シコシス”の名前は、聞いたことがある。目立たないが、食事も安くて美味くて量もあり、良い店だと。ただ、時折ガラの悪い客を見かけるのと、怪しげな店長のせいで、どうにも人気が伸び悩んでいる店だ。
「ハッハッハ、珍しいですネー。ヒムロっちのお友達ハ。何か飲みマスかー?」
「店長。仕事を。それと、学生に酒を進めぬように」
 室内なのに、ソンブレロとポンチョを装備し、顔をサングラスと布で隠した謎のガウチョが、この店の店長であった。自称、カルロスという名前らしいが、どうにも怪しく、偽名らしい名だ。テキーラ片手の店長は、すらりとした手足が美しいウェイトレスに怒られていた。
「消毒液の匂いも、真っ白なシーツも、美人の保険医も居なくて残念ですか?」
「美人なウェイトレスなら、ここに!」
「だから、勉学の邪魔をするなと言っておろうが」
 話に入ってこようとした可愛らしいウエイトレスを、先程店長を怒っていたウェイトレスが捕まえ、バックヤードらしきスペースに引きずっていく。どうやらあのウェイトレスが、この店の本当のまとめ役のようだ。
「お目汚しすみません。この店ぐらいしか、使えそうな場所がなくて。図書館は、この間、インパクトが暴れたせいで休業中ですし」
「ああ。アイツ、タフネスと脱走の腕前だけは一流だから、よく暴れてるんだよな。ところで、ヒムロさんは、この店の関係者? 店長も知ってる感じだし、何より今は営業時間外なのに、入れたし」
「わたしもバイトしてるんですよ。ここで」
「へー……。うん、似合いそうだ」
 思わず出た、素直な感想だった。店長の格好は怪しいが、ウェイトレスの格好はまともだ。西部劇におけるバーの格好、胸が大きく開いたドレスに似た衣装は、レトロが過ぎて、今では逆に鮮烈だ。
「え? あ。はい、どうも。似合ってますよ、私は」
 多少頬を紅くしたものの、ヒムロはノゾミの褒め言葉を受け流す。おかげで逆に、ノゾミが恥ずかしくなる。なんで自分は、こんな歯の浮くような台詞を言ってしまったのか。これではまるで、従兄弟のようではないか。
「えーっと、って事は、何時も学校に来ないで、ここでバイトしてるってことかな!」
 思わず、声が上ずってしまう。
「はい。本当は、ここのバイトと他の事だけで手一杯なんですけど、学校にも一応籍を置いてます。学歴は、それなりに大事ですからね」
「ヒムロさん、飛び級で大学行かないの? 大学の方が、自由に時間を使いやすいし、何より学歴も、さっさと付くじゃないか」
「わたしにとって学校は、一般社会と繋がる、一つの糸なんですよ。昔、ある人に、好きな事をやっていてもいいが、何かしらの世間との糸がないと、本気でダメダメになるぜ? なんてことを言われて。年でいったら、わたしは高校生ですから。飛び級しちゃうと、糸が細くなる気がするんですよ」
「なら、まともに出席すればいいのに……」
「他のことが忙しいですから。まあ、こうして成績でなんとか無理やり糸をつないでます。大丈夫、今日、あなたが学んだことは、一日の出席よりも大きいことですから」
 いい笑顔でそんなことを言われてしまっては、ノゾミにもはや言えることはなかった。
 だいたい、ノゾミはもっと前から、ヒムロに恩義がある。ヒムロが同じクラスに居なければ、オウルガールはノゾミの成績ノルマを、学年一位に設定したままだっただろう。非公式全国一位、ヒムロの存在を知って、オウルガールのノルマはグッと低くなった。
「うん。助かったよ、ありがとう。学校でじっとしているより楽だったし、何か、いいことを学べた気がする。これで今度のテストで、色々見返せそうだ」
 素直に礼を言うノゾミを、ヒムロはじいっと見つめている。値踏みというには純粋で、観察というには潤いが。ヒムロは両の眼で、しばらくノゾミを見続けた後、
「違うみたいですね」
 こんなことを口にした。
「え?」
「まだ、顔から悩みが消えてません。てっきり、勉強のことで悩んでいると思っていたんですけど、どうやら違ったみたいです。予想外です」
「そんなに悩んでいるように見える?」
「見えます。まだ」
 ノゾミは思わず顔をマッサージする。朝はともかく、ヒムロに連れ出されて以降、だいぶ顔は柔らかくなったと思っていたのだが。それに、今の保健室での勉強会は、それなりに楽しめた。アインのことなど、忘れるぐらいに。
「残ってるんだ、悩み」
「ええ。残ってますよ、悩み。わたしがあなたに声をかけたのも、あまりに酷い悩みを感じたからです。酷いって言ってますけど、褒めてますからね? 悩みというのは、魅力的なものだし、必要なものなんですから。ハッキリ言って、あの学校で、あなたほど悩んでいる人を見るのは、初めてでした。だから、声をかけたんです」
 ノゾミがヒムロを惹きつけたのは、ルックスや性格でなく、自身が抱えていた悩みだった。普通、他人の悩みなんて、避けたい物なのに、ヒムロはあえてこうして、足を突っ込んできた。きっと、彼女もノゾミのような避け得ない壁にぶつかり、同じように悩んだのだろう。
 ヒムロは、ノゾミが壁を超えることを願っている。ならば、全て正直に話せなくても、相談すべきではないか。信頼できる、クラスメイトとして。
「実は俺、バイトが上手く行ってなくて……」
「バイト?」
 副業なのか本業なのか自分でも分からないが、そういうことにしておくべきだ。素面で“実は俺、スーパーヒーローなんだ”なんて、言える筈がない。
「ちょっとした仕事で、今まで上手く行ってたんだけど、この間から壁にぶつかっちゃってさ。おかげで、この怪我だよ」
「ちょっとした仕事で負うレベルの怪我じゃないような」
「一度目は普通に失敗して、二度目はいと……前任者の真似をして、失敗。それで、三度目はどうしようかと。それで、ずっと悩んでいた」
「なるほど。話は分かりました。でも、一つ、不思議なことがあるんですけど」
「うん」
「その仕事って、そんなに傷を負ってでもすべき、魅力がある仕事なんですか? 第三者の視点だと、怪我は負うし難しいしで、結構な理由がない限り、そのバイトは止めた方がいいのではと、言ってしまいそうなんですが」
 冷静な意見だった。
 確かに、こんな仕事、余程の理由がない限り止めたほうがいい。所詮、ノゾミは成り行きでコスチュームを着た身分、ヒーローになろうと決心したのは従兄弟のヒカルであり、自分ではない。それでも一生懸命に、自分ができることを果たそうとしているが、ヒカルを知る人間は皆、ノゾミにヒカルを重ね合わせるだけだ。ボーイはあくまでボーイ、バレットではないのだ。しかも、ノゾミがヒーローを止めても、オウルガールが代わりにその立場に入るだけ。唐突に止めても、おそらくどうにかなる。
「止めたほうがいいんだろうけどさ。でも、辞められないんだ」
 しかしノゾミは、簡単な道を選べなかった。たとえ、後のペナルティも何もない、このようなやり取りの中でも。
「意地ですか? 待遇ですか? しがらみですか?」
「受け継いだ者の、責任なんだと思う。前任者と並ぶための、責任。きっと何時でも逃げられるし、逃げた方がいいけど。逃げたら、終わるんだ。色々と」
 最速の男は、責任からも光速で逃げられる立場にある。それでも、ノゾミの矜持はそんな選択肢を選ばせてくれなかった。
 ヒムロはノゾミの直視をしっかと受けた後、目を逸らしてじっくりと考え始める。初めて出会ってから今まで。天才少女が見せたことのない、悩む素振りだった。時間にして4〜5分考えた後、ヒムロは閉じていた目を開け、先ほどのノゾミと同じように、相手の目をしっかと見た。
「あなたの抱えている物を、わたしは漠然としか把握できていません。けれども、あなたが重荷を背負っていることは、十分に理解できました。理解の末、わたしに出せた答えは一つ。あなたは、自分流で行くべきです」
「自分流……でも、それをするには」
 おそらく、散々な邪魔が入る。オウルガールはいい顔をしないだろうし、ファクターズも余計な茶々を入れてくることは必須だ。
「人を継げば、当然見比べる人は現れます。でも、それが、なんなんですか? 己を貫き成果を出せば、文句は後からついてきて、やがて文句を完全に置き去る。あなたの集中力は人一倍です。悩みも重荷も全て背負って走っても、誰も追いつけないぐらいに、速くなれる」
 力強いヒムロの言い切りが、ノゾミの胸にじんと響く。この新鮮な響きは、おそらく改革。己の心中で、何かの真理が覚醒しようとしている。おそらくヒムロは速さを只の比喩として使ったのだろうが、速さを励ましに組み込まれたことでノゾミの胸腺は大きく刺激されていた。
 だが、ノゾミが真理に辿り着くより先に、彼の思考を留めるような破壊音が、ノゾミの覚醒を留めてしまった。
「爆発ですか!?」
「どうも、大通りで何かがあったようだ!」
 ウェイトレスとヒムロは、即座に店の外へ出て、大通りへ向かう。ノゾミはスクールバッグを持つと、入り口とは逆へ。店のトイレへと駆け込んだ。




 インパクトの衝撃波が通りの店を壊す。
「破壊活動はたのしーなーっと!」
 大通りで暴れているのは、脱獄してきたインパクトだった。両手には何時もの衝撃波発生装置、オウルガールに外された両肩にはプロテクターが装備されている。せめて、治療が終わってから出てくればいい物を。
「バレットボーイがアインに負けて、負け犬に。俺達悪人の時代が来たとなっちゃあ、牢屋にこもっちゃいられねーぜ!」
 意気軒昂なインパクトは、手当たり次第に街を破壊していく。散々建物を壊した後、彼は装置を、遠巻きに自分を囲む野次馬に向けた。
「モノを壊すのも、飽きたなあ」
 衝撃波が人を襲う。照準は様子を見に出て来たヒムロを狙っていた。
 ぐわんと空気が揺れ、アスファルトがめくれる。ヒムロは唐突に消えていた。まるで、ワープでもしたかのように、少し離れた場所に立っている。
 驚く間もなく、倒れるインパクト。ワープ同然の速度で出現し、インパクトの延髄に肘を叩き込んだのはバレットボーイだ。彼はオウルガールの言っていた二度の敗北の結果を、しっかと噛み締めていた。
「ヒーローが負けるっていうのは、こういうことなんだ」
 正義が負けることにより、悪が勝ち誇る。敗北により、ヒーローの名前が地に落ちれば、ヒーローの名前を恐れて潜んでいた悪党が、次々と表に出てくる。
 ヒーローの敗北は許されぬことを、やがて自ら知ることになる。オウルガールの忠告は、予言のように正確に、ノゾミへと降りかかった。
 三度目は、許されない。オウルガールに告げられずとも、容易く理解できる現実。バレットは頭の中を占めるモヤを吹き飛ばすため、走ることにした。悩んだら、とりあえず走ってみる。昔はこれぐらいのシンプルさを好んでいた。
 同僚のウェイトレスと並び、此方を見るヒムロに、ボーイは軽く手で感謝のサインを贈った。今しがた、インパクトの攻撃から救出したが、それぐらいでは返し切れない恩が、彼女にはある。
 ヒムロのリアクションを見るより先に、ボーイは光速の足で駆け出す。これは自らを確認する為の、重要な儀式であった。


 彼女の瞳は、怪訝と呼ぶべき色に染まっていた。
「……一体何の目的で? 何より、随分と元気そうですが、何の裏があって」
 ヒムロはバレットボーイの感謝のサインを理解できず、何故か彼に疑いの目を向けていた。ノゾミは知らぬものの、ヒムロにとってのバレットボーイは、実はよく見知った人間であった。
「そう深く考えることでもない。単なる、人助けだ。対象が、貴殿だっただけで。しかし随分と、速さに迷いがない。敗北を二度も重ねた人間とは、思えぬよ」
「忘れたんですかねえ、嫌なことを。まあ、それもアリだけどねー」
 ウェイトレス二人も、彼のことをよく知っている口ぶりだ。三人は既に、エル・シコシスの店内に戻ってきていた。
「あの速度ならば、既に街を出ている筈ですね。まさか逃げたとは思いませんが、彼の真意が分からないというのは事実。分からないことは、考えるだけ無駄です。ところで、あの彼は何処に?」
 ヒムロは辺りを見回すものの、ノゾミの姿は消えていた。
「トイレに行きましたヨ、さっき」
「あの騒ぎで厠にと言うのも、豪胆な話だ」
「え? でも、トイレには誰もいないよー?」
「そんな馬鹿ナ。出るとこを見てないですヨ、ワタシ?」
 やいのやいのと騒いでいる、店長とウェイトレス二人。ヒムロはそんな三人から距離を取り、ノゾミが持っていたスクールバッグを探す。バッグも消えている所から見て、彼はきっと、自分の意志で店から去ったのだろう。
 騒ぎに驚いて、トイレに行くふりをして逃げ出した。こう考えるのが妥当なのであろうが、どうにもヒムロは、その考えに至らなかった。
「私のアドバイスで、彼は何かを見出してくれたのでしょうか?」
 居ても立っても居られぬほどの光明を見出し、ただひたすらに目標に向かって邁進している。店から立ち去ったのは、ただのその一環であり、大したことではない。
 ヒムロは、ノゾミがそれだけの集中力と可能性を持っていることを、今までのやり取りを通し、実感していた。


 走ることが、昔から好きだった。
 幼稚園のかけっこでは、常に一番を取り、小学生時には自ら望んで地元の陸上クラブに入り、そこでも一位。トントン拍子で名門陸上部保有の私立中学にスカウトされ、短距離走選手兼特待生として入学。周りがどんどん速くなっても、ノゾミはずっと一等で在り続けた。
 好きなことをしているだけなのに、人生がいい方向に転がり、周りに褒め称えられ続ける。それは紛れも無い幸運で、幸福だった。
 幸と言うものは、唐突に終わりを告げる。そんな当たり前の事を知ったのは、従兄弟と共にとある事故に遭遇してからだった。地元の三面記事に乗るような事故にあった後、自分が速すぎることを知ってしまったからだ。
 0.1秒を削る世界に生きていたのに、気がつけばストップウォッチでは測れぬ、光速の世界に入門していた。自転車よりも車よりも飛行機よりも速く。こんな速さ、陸上競技において許される物ではない。異端者となってしまった自分に絶望し、ノゾミは走ることを止めた。こういう異端者は差別される物であると、思い込んでもいた。
 最初は周りもどうしたのかと気にとめてくれていたが、ノゾミの訳の分からぬ絶望に嫌気を覚え、次々と皆関係を絶っていき。走ることで成立していたノゾミの幸福な人生は終わった。中学にも通わず、ただ部屋に引きこもる。走ることどころか、動くことが怖かった。
 あの時もっと早く、同じ事故にあった従兄弟も同じような速さを手に入れているのではということに、気がついていれば。それならば相談の後、色々状況は変わっていたのかもしれない。今となっては、手遅れな話だ。足がいくら速くなっても、頭の血の巡りは悪い上に幼かった。
「色々思い出すなあ……」
 真っ白な息を吐き出しながら、ノゾミは思い出を述懐する。その後、従兄弟の死を知ることにより、ウェイドシティでの一人暮らしやバレットのコスチュームを着ることを選択するのだが、忙しさとプレッシャーのせいで、結局今日まで思い出せなかった。
 走るのが、元来好きだったと言うことに。
「で。これ、南かな、北かな」
 辺り一面真っ白な上、ブリザードが吹き荒れていて目を凝らさなければ常時視界不良だ。アブソリュート対策として、コスチュームに耐寒装備をしていなければ、本気で凍え死んでいる。気が赴くまま走りだしたとは言え、バレットの衣装のままで本当に良かった。
 思うがままに街を駆け、大地を駆け、海の上を駆け。気がつけばノゾミは、南極か北極のどちらかに到達していた。光速の男にとって、世界は狭すぎる。走るのが楽しくて勘定していないが、下手するとこの短時間で、世界一周どころか世界五周ぐらいしてしまっている。
「あの、ちょこちょこ歩いてるのは、ペンギンだ。つまり、ここは南極か。じゃあ、北に向かえば、街に帰れる。うん、正しい筈だ」
 目を細め、居並ぶペンギンの姿を確認し、ノゾミは自らの所在地を確認する。南極にいる以上、何処に向かっても北に向かうことになるのだが。おかげでなんにせよ、迷うことはないし、迷っても瞬く間に正しい道に戻れる。
「いやあ、走るのって、やっぱ楽しいな!」
 傷だらけでも、上機嫌すぎて痛みを感じなかった。思わず、独り言もポロポロと出てくる。
 走ることが好きだという純な気持ちが、疲れきっていたノゾミをたぎらせていた。この楽しみ、引き出された己自身をぶつけてみせる。世界を巡りながら、アインとの第三戦に向けての秘策を、ノゾミは編み出していた。継承を強いられ、敵に小言を言われ。そんな不自由な身分の少年が、初めて自ら編み出した、ヒーローとしての秘策だ。
 街に帰るため、ノゾミは再び光速の世界に身を投じる。急に氷原から消えた人間を見て、残されたペンギンは目を丸くしていた。


 既に、夜の帳が下りていた。
 ガチャンガチャンと、機械の足音は当然のように目立つ。アインは今までの強盗で奪い取った膨大な金品を、金庫がわりの部屋に入れていた。彼がアジトとしている波止場近くの倉庫には、大きな鉄の扉で封印された一室があった。内部も鋼鉄により補強されている。盗人は、盗まれるのが何より嫌いなのだ。
 サビ防止の加工もされているのか、海の近くであっても、アインの身体に軋みはない。アインは人を待っていた。おそらく、彼を復活させた黒幕である人物を。アインは、センサーの感度を上げ、警戒している。おそらく、三度目の戦いを挑んでくる、二度死んだ少年を。光速の奇襲を考慮したセッティングをアインは自分自身に施していた。もしボーイが来れば、即座に探知できるようにしてある。
 問題は、アインの頭の中に、バレットボーイの存在しか無いことである。
 遠くのビルから、倉庫を観察しているオウルガール。彼女のマスクには、望遠機能や各種センサーも搭載されている。このような遠距離からの監視兼捜査は、容易いことであった。
 やがて、そそくさとやって来た人影が、周りを警戒しながら倉庫に入った。おそらく彼が、黒幕であろう。黒幕が入った所で、オウルガールは時刻を確認する。
「あと五分」
 五分待っても来なければ、倉庫に突入する。バレットボーイの成長を見守るよりも、正義を優先しなければならない。おそらくこの行為が、下がり続けるバレットボーイのヒーローとしての価値に、止めを刺す行為だとしても。
 オウルガールは盗聴器の感度を上げる。既に倉庫には、盗聴マイクが設置済みであった。


『遅かったな。俺のレストア代金、用意しといたぜ?』
『声が大きいぞ。誰かに聞かれでもしたら……』
『あんたらは困っても、俺様は困らないんだよ。あんたらの工場の機械のせいで、こんな身体になったんだ。ありがたさを感じているとはいえ、恨みもちったあ有るんだぜ? ああ、心配するなよ。支払うブツに、一切そういう恨みは入れてねえからな。しかし、あんたらの会社はそれなり企業だろ? こんな危ない金がいるのかね?』
『最近、戦争がなくてジリ貧でね。しかも粉飾決算がバレそうで、極秘裏な上、早急に纏まった金がいる。たとえ、危ない橋を渡る羽目になっても』
『バレたら、終わりじゃねえか?』
『その時は、私一人の罪として処理できるよう、既に保険はかけてある』
『企業戦士ってヤツか。立派だねえ。チンピラの俺様にゃあ、務まらん仕事だ。へへっ』


 盗聴器を操りながら、持ってきたノートパソコンをいじくる。今の会話を後付けする情報は、すぐに出て来た。
「長期の粉飾決算に加え、経営者の使い込み。うーん、どうやらまともに稼いでいては、補填できないレベルの穴が出来ているようですね」
「長年、まともにやってこなかったツケが、簡単に払えるものか。それでも、あくまで偶然産み出してしまった機械の悪鬼と、わざわざ関係を持とうとするのは理解できぬ。傷口を塞ごうとして、広げているようにしか思えない」
「まっとうな判断力を最初から持ち合わせているのなら、粉飾決算なんかしませんよ。追い詰められれば、さらに判断力は低下しますしね」
 ファクターズの二人、アブソリュートとキリカゼは、アインにもオウルガールにも見つからないところに潜んでいた。マイスターは別件の用事で離れている。それに元来、何時も三人で動くわけでもない。ファクターズは、緩やかな組織だ。サークル活動的な。
「調べを進めた上で、脅迫でも?」
「既にいい物は持ちだされているであろう状況で沈む船に足を踏み入れるのは、あまりよくないかと」
「サイバネティック忍術は企業スパイにも使えるのに」
 スネるキリカゼ。どうやら、目立つ機会と言うより、自分が役に立てる機会が欲しいらしい。何かの技を極めた達人に良く見られる症状だ。
「サイバネティック忍術披露の機会は、別に用意してあるので、それでご勘弁下さい。それよりそろそろ、戻ってきたようですよ?」
 アブソリュートはPC備え付けのセンサーを指さす。センサーは、光速で街へと向かってくる、等身大の物体を察知していた。
「ふっ、拙者のニンジャセンスは、とうの昔に察知しているぞ?」
「そうですか」
 あっさりと自慢を流され、キリカゼはまたいじけた。
 ただし、ほんの数秒の間。
「いかん! このまま走って来ては……!」
 数秒後、あることを見ぬいたキリカゼは、必死に駆けてくるバレットボーイを止めようとし、間に合わぬことをコンマで察した。


 オウルガールも、急いでビルの上から飛ぶ。いくら速く飛んでも、間に合わぬのに。冷静な彼女に、それだけの焦りを感じさせる物が、アインの潜む倉庫の入り口に設置されていた。スイッチを入れるまで、存在に気づかなかったのは、此方の手落ちだ。
『そろそろスイッチを入れておかねえとな。俺様のレーダーが、光速のガキが走ってくるのを察知した。入口に設置した、この機会のスイッチを入れればいいんだよな?』
『あ、ああ。スイッチを押せば、一瞬で電磁バリアが展開し、通過する物はなんであろうと焼き尽くす。それより早く押してくれないか!? 相手は、光速の男なんだろう!?』
『へいへい。それじゃあ、ポチっとな』
 盗聴器から流れてくる会話が、バレットボーイの危機を知らせる。光速走行中の彼に、通信することは不可能だ。そしてもう、彼は何も知らぬまま倉庫入り口に到達しようとしている。このままでは、少年は焼かれてしまう。必死に動いているものの、間に合わないことは分かっていた。それでも、動かずにはいられない。
 二度も、バレットと名乗る男の死を看取るのを、ただ許すことは出来なかった。


 アインがスイッチを押し、バリアが展開される。其の後、バレットボーイがバリアに突っ込み、骨も残さず燃え尽きる。順当な話だ。バレットボーイの足の速さを考慮しても、この流れは覆せぬ。彼の命は、光速のまま潰えるのだ。
「……ケッ」
 アインは機会音声で吐き捨てるような声を出した。既に彼の身体に唾液腺は存在しないが、人であったころの癖は、今でも抜けない。
 無事なままのバレットボーイが、倉庫内に出現していた。少年は、スーツ姿の取引相手を気絶させ、じっとアインを睨んでいる。若者特有の生意気さが見て取れる目は、アインにとって腹立たしい目であった。
「バリアに隙間でもあったか?」
「バリア? ああ、あの入り口の? 悪いね。作動する前に通過したもんで、気づかなかった」
「なんだと?」
 アインがスイッチを押し、ボーイが通過した後、バリアが展開される。ボーイは速さで、有り得る未来を覆した。常識外の速さは、アインやオウルガールやアブソリュートが持つデーターよりも一層速くなっていた。
「若い分、成長も早いんだよ。こっちは」
 自分の中に眠る、走る楽しさを思い出しただけで、速くなる。無茶苦茶で簡単過ぎる話であったが、ノゾミの体と頭が、自ら嫌で封印していた陸上選手時代の走りを思い出したとなれば、そこまで筋の通っていない話ではない。事実、ボーイは速くなっている。事実が出てしまえば、理屈は後から付いてくるしか無い。
「成長ねえ。機械の俺様にゃあ、縁遠い言葉だ」
 アインは成長しない。彼を高めるのは、改造である。
 アインはまずバリアのスイッチを切った。切った上でのガトリングガンで、機械を蜂の巣にする。バリア装置は、煙を吐いて爆発した。
「俺様の身体をぶっ壊せるのは、このバリアぐらいだからな。バリアに突っ込まされて自滅なんて間抜けなヤラレざまは、避けたいところだ」
「バリアを利用するだなんて、全然考えてなかった」
「だからテメエはボーイなんだよ。これで唯一の勝ち目がなくなったことにも、気付いていやがらねえ。たとえ、一秒に十万発パンチを打ち込まれても壊れぬ堅さ。多少速くなっても
全然関係ねえ俺様センサー&俺様レーダー。どうやっても、ボーイが鉄を砕く未来が見当たらねえ。二回もやられて、まだ分からねえのか」
「二度あることは三度あるより、三度目の正直って言葉の方が好きなんだ」
「奇遇だな。俺様も、そうなんだ」
 三度目で対象抹殺による完全勝利を得るべく、アインはガトリングガンをボーイめがけ放った。
「大事な取引相手じゃないのかよ!?」
 ボーイは気絶した取引相手を抱えて、光速で移動していた。
「なあに、既に九割はレストア済みなんだ。代金を踏み倒しても、なんの問題もねえよ」
 アインは構わず、倉庫中を弾で埋め尽くす。実際彼は、こうして言い訳の立つ形で、取引相手を殺すことを狙っていたのだろう。利益なんてものは本来、独り占めするに限る。
 アインの乱射の合間を縫って、ボーイは今のところ安全な物陰に取引相手を叩き込んだ。多少手荒くなったのは、仕方ない。
 身が軽くなったボーイは、倉庫の内壁を沿うように移動する。銃弾が壁を穴だらけにするが、金庫用の部屋の扉だけは無事なままだった。だがまさか、開かぬ扉を盾にするわけにもいかない。
 アインの肩がスライドし、中からミサイルランチャーが出てくる。発射されたロケット弾は、今のボーイに劣らぬ速さでボーイを追尾する。
「ギャハハハ! 追尾式の高速ミサイルだぜ! 銃弾とミサイルのセット攻撃、捌ききれるかぁ!?」
「……いや。結構普通に、さばけるけど」
 ボーイは倉庫内を走る速度を上げる。壁や物のような障害物がある空間においても、彼の速さに衰えはなかった。先ほどまでお荷物を持っていたこともあり、今までは多少、速度を抑えていたが。
 高速ミサイルの追尾を振り切ったボーイはそのまま大回りし、逆にミサイルの尻を追い、ミサイルの腹を捕まえた。そのまま襲い来る猛射をくぐり抜け、アインの顔面にミサイルを手動で直接ぶつける。ミサイルがぶつかり爆破するまでの間に、ボーイはアインの脇を駆け抜けた。
「うが! せ、センサーが……どこだ! 何処に消えた、糞ガキ!」
 煙に巻かれているものの、アインに目立った損傷はなかった。せいぜい、一瞬センサーが機能停止したぐらいだ。だがその一瞬で、ボーイはアインの視界から消えていた。
「そう怒るなよ。俺はここにいるぜ」
 隠れたり、光速で相手を引っ掻き回すこともなく、アインの正面、一応距離を置いた場所に光速の少年は悠々と立っていた。


 倉庫内の様子を伺うオウルガールは思わず叫ぶ。
「何を考えているんだ、少年……!」
 相手の視界を奪ったならば、そのまま物陰に隠れて好機を伺うのがベストだ。なのに、こうしてアインの真正面に立つとは。折角の好機を逃した上に、相手の有利な状況に持ち込むだなんて、理解ができない。
 このまま倉庫に飛び込むべきかと、オウルガールは悩む。だがしかし、先ほどの攻防には、今までの戦いには見られなかった、思考の活発さがあった。速さといい発想といい、バレットボーイは格段の成長を見せてくれている。
 出るべきか、出ざるべきか。即断即決の女が、判断を下せずに悩んでいた。


 自分の仕事を放り出す勢いでアブソリュートは思わず叫ぶ。
「一体何」
「待て! 騒ぐな!」
「むぐぐー!」
 脇にいたキリカゼが、慌てて口を塞ぎ、アブソリュートが思わず投げたモニターを拾う。二人はバレットとアインの戦いを、隠しカメラからの中継で監視していた。
「隠密行動ということを忘れるな。気づかれたら、厄介なだけだ」
「でも、このままではバレットボーイが……」
 ミサイルを手で捕まえ、アインにぶつけたのは良かった。ああいうやり方は、ボーイではなくバレット。先代のバレットによく似た発想だ。ここまではベストだが、ああしてアインの前に立つことはワーストだ。あの差し向かいの状況では、一撃で仕留めなければアウト。こうなると、難題は更に不可能へと進化する。
「拙者たちのこの位置では、駆けつけても到底間に合わない。こうなっては、ボーイの知恵に期待するしかないだろう。それに、拙者たちも今の作業を投げ出すわけにはいかない」
「……」
「熱さと冷たさを持つ女なのは分かっている、だがここは、冷徹な思考のみで当たるべきだ。プロフェッサー・アブソリュートであるならば理解できる筈だろう!?」
 キリカゼの説得は必死だった。まるで己も、何かを我慢しているかのように。
 アブソリュートは無言で頷くと、自らの作業を再開する。冷徹であることを決めたものの、内の炎は、今すぐにでも決戦の現場に殴りこまんとするぐらいに滾っていた。


 バレットボーイは、急にしゃがんだ。アインはボーイの行動が理解できなかった。しゃがんで、射撃の的にでもなってくれるのか。ちょろちょろ逃げ回られるよりは、遥かにマシだが。
「知ってるか? コレ。クラウチングスタートって言うんだぜ」
 身体や足を極限まで縮め、スタートの合図と共に、大地を蹴り伸びやかに走りだす。陸上競技において、主流と呼べるポピュラーな体勢だ。最も、こういう状況においては、全くポピュラーでもなんでもないが。
「俺、気づいたんだ。バレットは速さを活かす道を選んだ。俺は俺に出来ること、速さを極める道を選ぶ」
 先代バレットであるヒカルは、科学に慣れ親しみ、理系大学の門を叩いた大学生だった。科学者見習いとして、速さを活かす発想が出来るベースを持っている。
 対するノゾミのベースは陸上競技、しかも短距離走だ。今ある速さに納得できず、速さを極めるベースを持っている。
 ノゾミは敗北の末、自分と従兄弟の、速さにおけるスタンスの違いを見出すことが出来たのだ。
「言っておくが。お前の想像やさっきの驚きなんて大したことないぐらいに、今からの俺は速いぞ。とても速く。すごく速く。とんでもなく速く。滅茶苦茶速く。本当に、速いからな」
 ボーイは、まっすぐにアインを見つめる。アインはボーイの目に、恐怖を覚えた。この青臭い真っ直ぐさが、なぜだか無性に恐ろしい。
「う……うおおおおおおおっ!? あーー!」
 両腕のガトリングガン。胸の対人指向性散弾。リロードの終わった肩のミサイルランチャー。腰の両脇にあるレーザーガン。口の火炎放射器。他におよそ十以上、アインは身体に内蔵された武器、全てのトリガーに指をかけた。内蔵火器の一斉発射は、ボーイどころかこの倉庫全体でもなく、街の半分は容易く焼き尽くす威力だ。人一人にぶつけるには、過大過ぎる。
 得も知れぬ敗残者の迫力に圧倒されたアインは、自身のスペックすらも分からなくなっていた。自分は紛れも無い、勝者だった筈なのに。
 全弾発射と、唯一の生身であるアインの脳が指令を発する。当たり前のように、ボーイはそんな意思の速度よりも、速かった。解き放たれた光速は、光となってアインの身体をさらう。光は、開きっぱなしの倉庫入り口から、海へと駆け抜けていった。
 光速の軌跡が、地球を回る。一瞬の内の世界一周は秒を切る勢いで終わり、ボーイは倉庫の薄い壁を突き破り、倉庫内へと戻って来た。
「……いいもんだろ? 光速の世界ってさ」
 ボーイは息も荒く、自分の手の中に収まっているアインに声をかけた。
「あえ、あへあへあへー。揺れる、世界が揺れるよぉ……」
 頭だけとなったアインは、ボーイに抱えられたまま軽く震える。センサーとバランサーが崩壊し、もはやまともな思考が出来る状態ではない。それにもう、あれだけ誇っていた、武器だらけの身体も無くなっている。
 アインの鋼鉄の身体や武器は、何処に消えたのだろうか。


 オウルガールは慌てて専用の監視衛星に映像をリンクさせる。幸いまだ、水上の軌跡も残ったままだった。俯瞰で眺める地球には、ぐるりと轍ができていた。
 バレットとバレットボーイの身体には、特殊なバリアが貼られている。マッハの速度で発する風圧や摩擦から己の身を守るバリアのおかげで、彼らは存分に速さを発揮することが出来る。バリアは、彼らが接触すれば、他者にも適用される。そうでなければ、人や物を抱えての光速移動が許されるワケもない。
 だがもし、光速の世界に連れて行くものが、規格外だった場合はどうなるのか。その答えが、頭のみになったアインなのだろう。光速から露出した彼の身体は、地球の大地や海に削られ、轍の周囲に散らばっている。アインの多彩な火器は全て、海に沈み、砂原に埋まり。速さに付いて行くほどの優れた電子機器は、無理に光速の世界を理解してしまいショート。地球一周の一瞬で、アインは完全に無力化された。
 若者らしい無謀さと、速度を追求した結果。ボーイは特攻まがいの作戦を打ち立てた。おそらくこのスリルを感じさせる作戦は、発想ではボーイの上を行く、バレットでも立てられない戦略だ。彼は良い意味で老成しており、速度を追求するのではなく、今ある速度の多様さを求めていた。
 この危うさは、なんなのだろうか。少なくとも、この戦法は一度封印させなければならない。鋼鉄のアインならまだしも、生身の人間相手には残酷すぎる。
 それに、轍が至るところに刻まれた美しくない地球は、好みでない。


 気絶した取引相手とアインの頭を一緒くたにロープでぐるぐる巻きにした後、バレットボーイは金銀財宝がしまい込まれた部屋の前にいた。ハイテクなアインにしてはローテクなダイヤル式の錠がかけられている。ボーイに解錠の知識はないものの、こういう数字が合えばどうにかなる錠は、大得意だ。
「ホホイのホイと」
 勝利の美酒に酔いながら、ものの数分で鍵を開けてしまう。例え万の組み合わせがあっても、光速の総当りには勝てない。
 重厚なドアを開けることで、ボーイの仕事は終わった。後は警察に通報して、簀巻きの二人と盗品を回収してもらうだけだ。一応警察が来るまでは、この場にいる必要があるものの、これでアインとの決戦は終わった。
「……あれぇ!?」
 アインとの戦いはあくまで日常の一幕、既に新たな戦いは始まろうとしていた。
 盗んだ札束や宝石で満載だった筈の部屋は、空っぽだった。壁に空いた穴から、ビュービューと夜風が吹き込んでいる。鋼鉄の部屋は、倉庫の外から突破されていた。壁が几帳面な真四角に切り裂かれている。
「キリカゼか!」
 こんな几帳面さがある犯罪者は、サイバネティック忍者のキリカゼぐらいしかいない。自分とアインが死闘を繰り広げている間に、彼女はアインが盗んだものの全てをかっさらっていたのだ。
 油揚げをさらったトンビを、ボーイは怒りのまま追撃しようとする。四角の穴から外に出ようと、室内に光速の脚で踏み込んだ。
 つるっ。ゴン。
 凍った床に足を取られ、ボーイは見事に転んだ。よく見れば、床の至る所が凍っていた。
「痛ーーーーッ!」
 頭をしたたかに地面に打ち付けたボーイは、ゴロゴロと地面をのたうち回る。
「未熟だな、少年……」
 呆れた様子のオウルガールが、穴の向こうから室内を覗き込んでいた。
 壁に空いた穴から、延々と伸びる氷の道。道は港を通過し、街の方へと伸びている。キリカゼは戦利品をソリにでも積み込み、氷の道を使って一気に運び去った。当然、この道は、キリカゼが作った物ではない。見れば穴の周囲も、微妙に溶けていた。高熱で鉄を炙ってから、一気に切り捨てたのだろう。
「アブソリュートも来ていたようだな。一人で動くときもあれば、こうして協調も。全くもって、緩やかな結束というのは厄介だ」
「これ……やっぱタイツ返すようですかね」
 穴から疲れた様子で這いでて来たボーイが、恐る恐る聞く。
「いや。アインを倒した以上、その話はいい。ツメは甘いが、よくやったな」
 自分も、ボーイのことだけを見ていたせいで、ファクターズの動きに気づかなかった。
 オウルガールが、ボーイを責められる訳がなかった。
「そう言ってもらえると、助かります……」
 ガクリと力尽きるボーイ。気絶ではなく、睡眠。勢いで突き進んでいた身体に、休息を。怪我を負っていることや、ずっと走り続けていた事に加え、負けてはいけないというプレッシャー。少年の身体を押し潰そうとしていた物は、勝利により霧散した。
 オウルガールは、ボーイの身体を軽々と両腕で抱える。パトカーの赤色灯とサイレンの音が、徐々にこの倉庫へと近づいていた。


 ソリを引いてアジトにたどり着いたキリカゼは、ソリから盗品を下ろしていた。札束や宝石を、机の上に置きながら仕分けしていく。
「ふっ。全て事もなしで、上手く行ったようじゃないか」
「……」
「バレットボーイは生き残り、アインは敗れた。若きヒーローが死ぬさまを見たくなかったのは、拙者も同じ」
「……」
「その上、拙者たちは、見事に獲物を横取りすることが出来た。生きるべき人間が生き、貰うべきものを貰った。考えられる上で、最上の結果だ」
「……」
「だから、機嫌をなおしてくれ。アブソリュート」
 楽しげに苦笑するキリカゼとは逆に、アブソリュートは不機嫌そうにしていた。ぶすっとした様子で、ソリに腰掛けている。
「……楽しそうですね」
「最上の結果を前にすれば、これが普通だ。むしろ不満気な、そちらがおかしい」
「そうですね。掠め取るという意味では、最高の結果でした。しかし、アレはいただけません。あんな力づくなやり方、バレットのやり方ではないです」
 アブソリュートの不満の根幹は、バレットボーイにあった。
「あんな力任せで、速度を誇るような荒々しいやり方で勝ってしまってはダメなんです。もっと発想力を持って、相手にギャフンと言わせるようなやり方じゃないと」
「あの真っ直ぐな勝ち方、拙者は嫌いではない。だいたいそちらも、別の真っ直ぐな男を、好意的に見ていたではないか」
「彼は彼! バレットはバレットです!」
 無茶苦茶な、ダブルスタンダードだった。
「帰って来たねえ、お二人さん!」
 焦った様子のM・マイスターが、扉から顔を出す。彼女は今回の横取りに参加せず、アジトで別の仕事をしていた。
「ああ。万事うまく行ったよ。ボーイも、面白い形で成長しそうだ」
「その割には、アブソリュートの機嫌が悪そうですねー。でも、それどころじゃなくてねえ、こっちは人が足りず手一杯。ぷりーず、へるぷうぃー」
「了解だ。忍法、早着替え! ハッ!」
 キリカゼの周りを舞う木の葉。木の葉が散った後、キリカゼは一瞬で着替えを終えていた。レオタード状のスーツから、エル・シコシスのウェイトレスの制服へと。
「それ今度、お客の前でやらない? きっと、受けるって。かくし芸的なノリで」
「考えておこう」
「あ。それどころじゃなかったよ! 予期せぬ団体さんがお着きで手が足りなくてー!」
 同じくウェイトレス着のマイスターは、思い出したかのように焦ってから店内へと戻った。
 ファクターズのアジトは、メキシコ料理店エル・シコシスのバックヤード。ファクターズの三人は普段、この店でウェイトレスとして働いていた。裏社会に堂々と君臨する気ならともかく、自由に動くのならば、表向きの身分と仕事は必須と言えよう。
「いきなりの団体客とは、これまた難儀な。店の売り上げ的には、ありがたい存在だが」
「わたしも……」
「いや。仏頂面はウェイトレスに良くない。アブソリュートは、盗品の仕分けを頼む」
 着替え始めようとしたアブソリュートを、キリカゼは止めた。むにむにと自分の顔をマッサージし始めたアブソリュートを見て、キリカゼはフォローを付け加える。
「それに、明日は学校だろう? 早く寝た方が良い」
「大丈夫です。サボりますから」
「せっかく友達が出来たのだから、簡単にサボろうとしない方がいいぞ。とにかく、こちらは大丈夫だ。なあに、なんなら分身して補ってみせる」
 冗談半分本気半分のセリフを残し、キリカゼも店へ向かった。
 アブソリュートはゴーグルを外し、素顔を晒す。しばし考え込んだ後にふと、昼間同じように悩み続けていた同級生のことを思い出した。
「ダメですね。わたしでも本気で心底悩むのは、数分が限界。悩むというのは、疲れるものです。あの人に、ずっと悩み続けるコツでも教わりましょうか」
 稀代の犯罪者、プロフェッサー・アブソリュートではなく、天才女子高生、ヒムロ=ヒナタとして呟く。ゴーグルを外して眼鏡へかけ直し、髪型をツインテールからロングへと戻した彼女は、明日の時間割を思い出そうとしていた。天才児が、教科書を忘れてはカッコ悪い。
 アブソリュートは真っ直ぐすぎるヒーローに違和感を覚え、ヒムロは真っ直ぐすぎる男に、学校に通う気になるぐらいの興味を持つ。二重人格でも何でもない、ただのダブルスタンダード。コレぐらい身勝手でなければ、悪役稼業はやってられない。
 バレットボーイとノゾミ。アブソリュートとヒムロ。ヒーロー、ヴィラン、立場は問わず。彼らは素顔でも、コスチュームを着ている自分を背負い続けていた。

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