BATMAN Void horrific killer~2~

「よお、お帰り。お前さん、どっちのニセモノだ?」

 青年は息を潜め、見つからないように努めていた。漏れそうな息を無理に抑え、興奮し高まる鼓動さえも抑えようとする。そうしないと、捕食者からは逃れられない。捕食者は、優れた聴覚で全てを聞き取り襲い来るのだ。
 ポタりと落ちる水滴の音にさえ、怯えてしまう。青年は真の捕食者の証を得るためここに送り込まれ、捕食者の資格を失おうとしていた。この下水道には全てを食らう化生が棲んでいたのだ。
「ああ、ようやく見つけた。オレはオマエと出会いたかった」
 化生が釘のような牙を剥き出しにして、青年の目の前に現れた。ワニのような皮膚、ワニのような眼、ワニのような口。ワニと人間を半々で融合した二足歩行のワニ男。ゴッサムシティの下水道に住まう彼の名は、キラークロック。何でも殺し、何でも奪い、何でも喰らう。言葉は喋れるものの、彼の精神は既に獣に到達していた。
「なんでも、人を殺して、死体を食っているらしいじゃないか。いいねえ、この街に悪役は多いが、そういうことをするのはオレくらいだと思っていた。でも思うんだよ、そういうのは一人だけでいいよな。独占しているナワバリに、ズカズカ入られるのは、愉快じゃあない。だから、ハッキリとさせようぜ」
 キラークロックはずいっと図太い己の腕を、青年の目の前に差し出した。
「食い合いっこだ。まずお前が先行だ」
 ハハハと、青年は空虚に笑ってから、キラークロックの腕に噛み付いた。キラークロックがかかっている病気は皮膚症である。彼の変態は皮膚がウロコ状になるところから始まった。その皮膚は、硬く重い。
 青年は必死で喰らいついているものの、キラークロックの肌に彼の牙は刺さらなかった。キラークロックの歯が、カチリカチリと鳴っている。彼の歯合わせが発する音が時計の音に似ているから、彼はキラークロックと呼ばれているのだ。
「時間切れだ。後攻に移るぜ」
 ガァっとキラークロックの口が限界まで開き、青年に襲い掛かった。噛み付くなんて物はとうに乗り越えた、食いちぎるという行為。青年の上半身全てを、キラークロックは一気に食った。バリボリ、ムシャムシャ、とんでもない租借音が下水道に響く。
「やっぱり丸齧りが一番だ。それにしても妙な味がしやがるな」
 人らしいゲップなんかして、キラークロックは爪で歯の残りカスを取っている。残った下半身を見た彼は、じゅるりと下品にツバを啜って、考え直した。青年の屍骸の断面には、作り物の象徴である歯車とバネが見え隠れしていた。

「あーあ。やっぱダメだったか」
 下水道の残虐ランチシーンの感想は、これだけだった。監視カメラごしとは言え、あますとこなく見ていたのに、これだけの感想。嘔吐でも悲しみでもない、ただジョーカーはガッカリしていた。
「残念だなあ。リオは本物になれなかったか。まあもし、本物のリオだとしても、アレにゃあ勝てなかったかもな。ワニ男はハードルが高すぎた。失敗、失敗」
 白純里緒の人形、先日ジョーカー自身の手で廃棄した巫条霧絵の人形と由来を同じとするものだ。本物に近づける為の最終試験で、この二つの人形は脱落した。蝙蝠を墜とし、同じ路線の悪役を喰らう、そこまでしてこその一流の狂人。一流でなければ、手元においておく意味もない。
 ボランティアで、ある男がかつて実験用に作った人形を預かっているわけではないのだ。調整にだって、金をかけている。
「まーしょうがねえか。キリエは相手がちとヘビーだったし、リオは元が失敗作らしいしな。次に行こう、次に。オレ様の辞書に諦めの言葉はねえ」
 ジョーカーは写真を手にし、後ろに控えている人形の手に握らせた。無痛症の少女を模しているだけあって、どうにも感覚が鈍い。でもそれはジョーカーにとって、愛おしいリアルさだった。
「お前はこの写真の男を捻って来い。捻って捻って、捻りまくって。飴細工みたいにしちまえ! まあ、それくらいしても多分死なないけどな、粘度男だし。でも好きなだけ、凶げて来い。いけね、お前らの口調が移っちまった。頑張れよ、フジノ」
 残された最後の人形。浅上藤乃の人形はゆっくりとした動きで、アジトを出て行った。ジョーカーはかつて起源覚醒者として式の前に立ち塞がった三人の人形を預かっていた。巫条霧絵、浅上藤乃、白純里緒、誰も彼も殺人鬼としては既に死したもの。ゴッサムをうろついている彼らは、狂気の幽霊なのだ。
 夢遊病のような足取り、浅上藤乃の人形は、彼女が一番追い詰められていた時期を再現した人形だ。違う点があるとすれば、病気は無いが痛みはあること。彼女の人形に、治せる箇所は無かった。そのくせ、痛みだけは搭載されていると言う矛盾。ジョーカー監修の元に加えられた調整だ。
 ジョーカーは笑顔で、街に歪曲の殺戮者を解き放った。どうなるかは分からんが面白いことになる。それだけで動機として十分だ。彼は何処までもそういう男だ。なにせ道化師なのだから。
「さあてと。貰った物を適当に使う、これじゃあ面白くねえよな。せっかくの日米友好犯罪条約、使う使わせるの関係じゃあ面白くねえ。もっと新たな物を生み出さねえとなあ」
 精巧な人形と、日本の情報。ジョーカーを動かすに十分な火種だった。彼はただ笑うのみ。笑いながら、人智を斜め下に掘削した超越を作り出してしまうのだ。

「凶れ」
 骨も筋肉も内臓も、捻じれて曲がる。歪曲の魔眼を持つ浅上藤乃の前に立つ物はみんな曲がって死ぬ。現に標的の男も捻じれ曲がっていた。
「首が逆を向いてしまった。まいったこれじゃあ、前を歩いても後ろしか見えんぞ。歩きにくいことこの上ない」
 ただし、男は死んでいなかった。首を後ろに、胴体を前に、足を後ろに。ねじくれているのに、平気な顔をしている。彼にとって、捻られることは死ではなかった。
 男の体が茶色に染まり、どろりと溶ける。男は地面を浸す泥と化し、やがて人の形を取る。男の正体は、泥人間クレイフェイス。不定形の体を持ち、どんな者にも変身出来る、キラークロックと同じく人の身体を捨てた犯罪者だ。「諦めろ小娘。お前の力じゃ、俺は殺せない。ただその姿形は悪くないな」
 クレイフェイスの身体に色と凹凸が出来る。クレイフェイスは即座に藤乃の姿を模倣してしまった。
「凶れ、凶れ、凶れ。こんな感じでしょうか?」
 声も口調も、藤乃そっくりになっている。クレイフェイスの前歴は役者、これぐらいの模倣は容易くこなせるのだ。
「不愉快です。とても」
 人形の藤乃の口から嫌悪感が滲み出る。
「その眼を移植すれば、わたしにもその能力がつくのでしょうか? 欲しいです。すごく」
 クレイフェイスは逆に羨望を露にした。歪曲の魔眼は、何もなしに真似るには少し難しい能力だ。眼を移植したぐらいで能力は移らないが、クレイフェイスにそこまでの知識は無い。
 睨み合う偽者同士、どちらもまだ日本で存命の、浅上藤乃の替わりになろうとしていた。アメリカでは、フリークの名は一代限りでなく、二代目・三代目と継ぐものなのだ。