空の境界 童夢残留~Ⅱ~

「偽者ばかりの日米共催ハロウィン。参加者になったつもりはないんだけど」

 とあるターミナル前、時刻は夕刻。平然とお茶会の席が用意されていた。ファンシーなポッドとカップ、ハートマーク柄のテーブルクロス、まるで童話の世界から抜け出してきたようなティーセットの数々。しつらえられた二つの席の一つは空席、もう一つの席には帽子屋が座っていた。童話不思議の国のアリスに出てくる、いかれ帽子屋。座っている男は巨大なシルクハットを被り、忠実に彼のコスプレをしていた。
「やれさて、私のアリスはいつ来るのやら。なにせ誰もウサギを捕まえられない」
 たった一人のお茶会。ただ彼の周りには、ぐるぐると回る人達がいた。通行人に、男を咎めに来た警官に、不可思議な光景を撮影しに来たマスコミ。みんな、見えない何かを追って追って追っていた。ぐるぐるぐるぐると走り回っている。そう、まるで、みんな見えないウサギを追いかけているかのように。
 追うもの同士でぶつかり合うならまだマシ、中には車道に飛び出してしまったり、フェンスを乗り越えて線路に落ちてしまった者もいる。ウサギは気まぐれで、掴まえられない幻影なのだ。
 当然、この帽子屋は童話から抜け出てきたわけではない。本名、ジャービス・デッヂ。通称マッドハッター。不思議の国のアリスに病的な程にのめり込んでいる狂人にして、催眠術や電子工学に長けた犯罪者。彼の生み出す幻覚は、人を容易くルイス=キャロルの世界へと誘う。
 マッドハッターはわざと大きな仕草をして、紅茶を飲む。なにせ、彼の待つアリスはまだ来ていなかった。ならばこれ位の仕草は許されるし、帽子屋らしい。マッドハッターは、完全にいかれ帽子屋になりきっていた。
 風が彼の脇をすり抜けた。大仰に構えた彼は、風を素通りさせることしか出来なかった。風は、既にナイフを仕舞い背を向けている。ようやく来たアリスは風となり、お茶会を無視して先に行こうとしていた。
「ああ、なんてことだ」
 マッドハッターのシルクハットに切れ目がはしる。
「アリスが来ると聞いていたのに、来たのは三月ウサギ。いや、違う」
 シルクハットが微塵となり、中から粉々になったコンピューターチップも出てくる。このチップこそが、マッドハンターが作る幻覚の要である。チップから出る電波が脳波に作用し、人々にウサギを追わせていたのだ。
「笑わないチェシャ猫が来るだなんて。反則だ」
 そう言い残して、マッドハッターは椅子から転げ落ちた。チェシャ猫の目には幻覚なんかは映らない。彼女の魔眼が映すのは、死の線と点なのだ。

 チェシャ猫よばわりされた式は、憮然とし気絶しているマッドハッターの胸倉を掴む。もはや既に、兆候は始まっていた。
「せっかく、街にとびっきりが出回るようになったのに。これじゃあ誰も殺せないじゃないか」
 マッドハッターの顔が枯れてしわがれ、瞬く間に彼はミイラとなってしまった。もはや干物となった彼には何も聞けまい。またここに置いて行って、死体を警察に預からせるしかない。
 突然突拍子の無い度外れの犯罪者が出現して、式が殺そうとし、犯罪者は勝手に干からびて死ぬ。こんなイタチごっこが、数日間にわたって繰り広げられていた。橙子曰く、この異常者の原産地はアメリカらしい。

 伽藍の堂、蒼崎橙子は机に座りっぱなしだった。ずっと、或る書類にかかりっきりになっている。面倒くさい仕事は部下に丸投げすべきである。そんな持論を持っている彼女にしては、珍しいまでに真面目な光景だ。
 最も現在、仕事を投げるべき部下は出張に出かけているのだが。
「へえ、珍しいこともあったもんだ」
 現に帰ってきた式も、素直に驚いていた。そして、かかりっきりの書類の内容を確認して、眉を潜めた。
「本当にどうしょうもない所長だな。幹也がいないから、歯止めが利かない」「いきなりのご挨拶だ。これでも必死なんだぞ」
「クロスワードパズルにか?」
 橙子は、クロスワードパズルを解いていた。大きな紙に小さな字で書かれた手強そうな一品を。式はやらやれとばかりに、力なくソファーに座る。橙子の気まぐれには慣れていた。
「ところで橙子、少しはこっちの謎も解けたのか?」
「謎? いったいなんのことだ?」
 橙子はクロスワードから目を離さずに聞き返す。
「とぼけるな。突如発生し始めた、異常者についてだよ。あいつら、みんなやりがいがなさ過ぎるよ。なんてったって、勝手に死んでいくんだから」
 ネズミの王、ラットキャッチャー。誇大妄想狂、マキシー・ゼウス。童話の住人、マッドハッター。これだけの狂人が突如街に現れ、悪ふざけとしか思えない犯罪を引き起こす。それも、式の行動圏内で。そして誰も彼も、敗れた後にミイラとなって死亡する。まるで式をからかっているかのような悪役達だ。わざわざ式をからかいに、アメリカから来日したのだろうか。
「悪い知らせが二つあるが、どっちから聞く?」
「そういう場合は、良い知らせと悪い知らせじゃないのかよ」
「無い知らせを捏造するわけにもいかないだろ。ではまず先の悪い知らせからだ。マッドハッターとラットキャッチャー、どっちともアメリカにいることが確認された。マッドハッターは、アーカム・アサイラムに。ラットキャッチャーはブラックゲート刑務所に。どちらとも今、服役中だ。どうせすぐ抜け出すだろうけどね」
「あのギリシャかぶれは?」
「とうの昔に死んでいるらしい。自分が最高神ゼウスの化身だと信じきっていた男、死んだってことは、やはり思い込みだったんだな」
 マキシー・ゼウス。自分がゼウスの生まれ変わりだと信じているだけの、変わり者のギャングだった。そう名乗るなら、せめて雷撃を放てるぐらいの芸当を身に付ければよかったのに。
「じゃあ日本に来たのは偽者ってことか」
「それが不思議なことに、DNA鑑定が一致したらしい。極秘裏にあっちの警察と連絡しあっている警視庁は大混乱だ」
「つまり本物が二人。日本に来ているのが偽者じゃないか?」
「根拠は?」
「死に様が偽者らしい」
「なるほど」
 直感的な意見ではあるものの、だいたい正しい気もする。反論すべきではない、式の意見だ。
「で。もう一つの悪い知らせは?」
「ああ。そっちは大した知らせじゃないよ。巫条霧絵がアメリカで死んだらしい」
「……なんだと?」
 大した知らせじゃないと前置きされた物の、十分にとんでもない知らせだった。
「橙子、ついにボケたか? 巫条霧絵はもう死んだだろ」
「死んだよ。式に霊体を殺されて、飛び降りで肉体を殺して。二度も死んだ稀有な女性だ」
「お前が言うか」
 霧絵が稀有ならば、二度以上死んでいる筈の蒼崎橙子はなんなのか。
「そしてアメリカで同じような事件を起こした彼女は、これまた同じように霊体を殺され、肉体は自殺して。彼女は四度目の死を迎えた、かに見えた。ところがそれは偽の死だったんだよ。普通、見抜けないだろうけどね」
「まさか、そっちも偽者?」
「ああ、偽者の人形だ。精巧に作られた人形、他の者はともかく、私の目は誤魔化せない。リアルな巫条霧絵の人形が、こちらで起こした事件と同じような事件を起こして、同じように死んだ。二つの街にそれぞれ現れた見知らぬ偽者。偶然と考える方がおかしい。この街と、アメリカのゴッサムシティ。どうやら何者かが、この街を繋げようとしているようだな」
 きっとそれは、橙子や式が知っている人間だ。巫条霧絵が起こした事件の内実を知っている人間は、そう多くない。ただし問題は、このような起源覚醒者の事件に関わっていた人間の大抵は鬼籍に入っている。全ての黒幕でさえもだ。
「まいったな。つまりとりあえず、アメリカ直輸入の異常者どもは途絶えないと」
「そうだな。誰もが悩む己の異常性を飲み干して、とんでもない方向に進化していった輩がな。ある意味、間違った方角で式の先にいる連中だ」
 無理やり解釈するならば、彼らは自分で勝手に起源を開き、覚醒している。いわば無自覚の起源覚醒者だ。
 ただ彼らの異常性は、救いでもある。数万のネズミを操る能力や、とんでもない洗脳技術を持っているのに、彼らは異常性からくだらないことに使う。もし真面目に使っていれば、被害は今の数十倍に到達していてもおかしくない。
「とにかく、黒桐が何か掴んでくれればいいんだが。勝手の違う外国なのが唯一の懸念だ」
「ちょっと待て、橙子。幹也は安全なところに出張に行ってるんじゃないのか? まるでお前の言い様だと、異常者達がうろつくゴッサムシティとかに出かけているように聞こえるぞ」
 幹也の出張は安全だ。そう聞いたから式は、危なっかしい彼の出張を許したのに。
「ああ。黒桐が出張に行ったのは、ゴッサムシティだよ。まあ、どうも私用でも調べたいことがあったらしい。ならちょうどいいだろ」
 橙子はまだクロスワードにかかりっぱなしである。式は派手に飛び起き、即座に部屋の出口となるドアへと向かった。
「どこに行く気だ? 行く前に、このパズルを解くのを手伝ってくれるか?」
「オレは幹也を追いかける。幹也と橙子に騙されちまった」
「私は騙してないぞ。黒桐一人ならば、大丈夫だ。ただ式、お前が付いて行くと危険になる。あの街にお前が行けば、必ず誰かといがみ合う」
「だから一人で行かせたってか? なら橙子が一緒に行けばよかった」
「私はあの街に馴染みすぎる。新たなヴィランにでもなってしまう」
「鮮花は?」
「あの娘はまだ未熟すぎる。下手に足を突っ込んで、命を失いかねない」
「下手に足を突っ込むところは兄譲りだろうが」
「黒桐だけなら大丈夫だよ。あの普通さは、とんでもない武器だ。ひょっとしたら、もう既にとんでもない人間との繋ぎを作っているかもしれない。安心しろ、身の安全を守るよう、あちらのクライアントには言い含めてあるから」
 普通すぎて異常。黒桐幹也を簡単に言い表すならば、こうだ。あの普通さは、常人に好かれて、異常者にはとてつもなく好かれる。ひょっとしたら、元よりゴッサムシティ向けの人材なのかもしれない。
「懸念が晴れたところで相談なんだが、『赤鬼と青い亀、次々と乗り移られるカカシは不憫だ』これの答え、お前分からないか?」
「さあな。だいたいそのパズルはなんなんだ、さっきからかかりっきりで」
「なんでも、これを解かないと、何処かの建物が爆発するらしい。そりゃあ必死で解きにかかるさ」
「……もしかして、また異常者か」
 式はドアから手を離し、憂鬱そうに頭を抑えた。
「ナゾラーだかリドラーだか、ともかくそんな名前の人間から、式宛に届いた挑戦状だ。老婆心から変わりに解いてやろうと思ったんだが、変わるか?」
「いや、いい。オレは少し寝るよ」
 もう勘弁してくれとばかりに、式は再びソファーに身を預けた。

 ゴッサムシティには様々な犯罪者がいる。最強や最高といったランク付けは難しい物の、最も権力を持っている人間だけは絞り込みやすい。何せ彼らは気ままに動いているので、権力という確固たる地盤を持っていられないのだ。
 現在、ゴッサム裏社会の最大権力者と目されている男の名はペンギン。丸い体躯に黒い燕尾服とシルクハット、鳥のくちばしのように尖った鼻。まるで鳥のペンギンのようなフリークス。それがペンギンという男だ。
 権力か金銭か暴力、どれかを持っていないと彼に会うのは難しい。難しいはずなのに、この三つを持っていない男がペンギンとの接触に成功していた。
「無茶苦茶な肝っ玉の大きさと、黒い服のセンスは認めるぜ、ミスターコクトー」
「ありがとうございます」
 行き過ぎた常人、黒桐幹也。渡米して役半日、既に彼はペンギンと二人きりで食事をしていた。