BATMAN Void horrific killer~1~

 最近のゴッサムシティでは人がよく墜ちる――

 アメリカ東海岸にある衆愚の街、ゴッサムシティ。セレブと貧民が同居し、ハイテクとレトロが同居し、犯罪と僅かな正義が住まう地。
 最近、この街では自殺が増えていた。少女の連続墜落死事件、衝動的に少女が高い場所へと登り、飛び墜ちる。他殺は多くとも、自殺は少ないゴッサムでこの事件はいやに目立ってた。
 何より市民の興味を惹いたのは、自殺現場に浮かぶ少女の影。霊魂のごとく浮遊する、東洋の少女。数は複数、一人死ぬたびに霊は数を増やす。ゴッサム市民は、オカルトな新ヴィランの登場かと色めき立った。
 しかし忘れてはならない、この街の闇の中には暗黒の騎士が住んでいる。まず彼を墜とさない限り、少女はタチの悪い死霊でしかないのだ。

 今日も一人、少女がビルの淵に立っていた。高層ビルが立ち並ぶ、ゴッサムのビジネス街。真新しいビルの中にある、取り壊し予定の古ぼけたビルの屋上に彼女は立っていた。道行く人々は、少女が飛ぼうとしていることに気がつかない。きっと気がつくのは、いつも通り、少女が墜ちた後だ。
 ふわりと、羽があるかのように、金髪の少女は飛び立つ。当然彼女に羽は無く、ただ墜ちるだけ。
 ただ墜ちる少女。地面を歩いていた通行人が気付き、絶叫した。ぐちゃりと彼女は潰れ、地面に赤い大輪の華を咲かす――筈だった。
 翼が有る矛盾の獣が、彼女を救った。獣は己が翼で飛び、墜ちる少女を捕まえ、別のビルの屋上へと連れ去った。
 気絶した少女を降ろし、蝙蝠は天を仰ぎ見る。人型の蝙蝠の周りを、浮遊する少女達が囲んでいた。
 蝙蝠は立ち上がる。尖った耳のついたマスクは蝙蝠の顔、黒いマントは蝙蝠の翼、蝙蝠の名を冠する彼の名はバットマン。犯罪都市ゴッサムの闇に潜む、クライムファイターだ。
「空に浮かぶ少女は九人。その内八人は、転落死した少女。ならば、見覚えのないお前が黒幕か」
 低く深い声を出し、一際目立つ黒髪の少女を指差すバットマン。彼が指差した少女は答えず、ただクスリと笑った。冷淡な東洋人の少女、白いドレスのような服と相まり、思わず日本の儚い幽霊を想像してしまうような少女。彼女の目がバットマンに訴えかけていた。
 墜ちろと。
 バットマンを襲う強烈な飛行衝動。自分は飛べる、自分は鳥、自分は空を支配できる。バットマンの鉄の意志に、彼女の思念は容易く食い込む。
 バットマンは墜落死のからくりを理解した。墜ちた少女達は、この想念を植え付けられ、墜落したのだ。そう理解したバットマンも、屋上より足を踏み外した。彼もまた、自身が飛行できると理解してしまった。
 ただし、少女と彼では大きく違うところがある。彼はこの場所でなら、飛べるのだ。ビルの林が作る、強烈な上昇気流ことビル風。バットマンのマントは風を受け、翼となり主を飛ばす。風に乗ったバットマンは高く飛んだ。浮遊する少女達を見下ろせる高さまで。
 主犯格の少女がバットマンを見上げ、驚いていた。

 蝙蝠型手裏剣、バッタランが三枚、孤をえがき三人の少女の額に突き刺さった。三人の少女は絶叫し、霧散する。センサーにも反応しない幽霊、もはや彼女達はそう解釈するのが一番楽な存在である。バットマン本人も滑空しながら、一人の少女の顔面を蹴り飛ばした。ふわりと霞を蹴り飛ばした感触、彼女もまた霧散した。
 残り五人。主犯格の少女はふわりと飛んで逃げ、残りの四人がバットマンを囲み飛ぶ。墜ちないバットマンからして見れば、只の邪魔でしかなかった。彼は少女を適当にあしらいながら、逃げる主犯格を追う。
 デコイの少女が全滅し、残るは主犯格だけという状況となって、蝙蝠は翼を失った。ビル風が唐突に途切れてしまったのだ。風を失った翼は只の布切れと化す。ついに、飛行衝動が凶器となる瞬間がやってた。人が死ぬには十分な高さである。
 主犯格の少女は逃亡を止め、墜ちるバットマンを見下ろす。それがミスだったと思い知るのは、数秒後のことである。
 グラップリング・フック。射出式のフックが少女の髪を揺らし、ビルの壁面に突き刺さる。ギュリンと機械の音がして、フックに繋がるワイヤーが巻き取られる。このフックこそ、本来バットマンが摩天楼を渡る際に使う道具である。
 高速で引き寄せられるバットマン、すれ違いざまに出された腕が、掴まえられぬ霊魂である筈の少女を掴まえた。少女を捉えたまま、バットマンは高速移動、壁面寸前で体を入れ替え、少女を壁に叩き付けた。相手が人外であるならば、どんな相手であろうと容赦の二文字は捨てる。正体は只の人間であるバットマンが、生き抜くために心がけていることだ。
「さあ言え。お前の名前は? 何の為にこんな事をした?」
 バットマンはうな垂れて力を失った少女を激しく問い詰める。バットマンが掴まえているのは、少女の細首。折る気はないが絶対に離さず、もはや彼女が飛んで逃げることは不可能であった。
「ふ、巫条……霧……絵」
 彼女は確かに、巫条霧絵と名乗った。
「フジョウ……? 不浄……? まあいい。それで、目的は?」
 バットマンの手に力が込められ、口調もキツくなる。何故なら、巫条霧絵の霊魂がどんどんと薄くなっていたからだ。このまま逃げられてしまっては、また1から事件を追うハメになる。
「目的……目的……」
「そうだ。目的だ」
 既に霧江の霊魂は消滅寸前だ。これがきっと、最後の一言となる
「わたしは、わたしになりたかったから」
 そう言い残し、彼女はこれまたふわりと消えた。霧絵を掴まえていたバットマンの手には、妙な浮遊感だけが残されていた。結局バットマンは、墜落死事件の証拠を、何も手に入れることは出来なかったのだ。

「また一人、少女が墜ちたぞ」
 数時間後、ゴッサム市警の屋上。バットマンを呼び出したジェームズ・ゴードン署長は開口一番こう言った。そして、転落現場の資料を差し出す。写真を見たバットマンは全てに納得して、ゴードンに資料を返した。少女はうつ伏せに落下しており、顔も身体も無残となっていたものの、この白いドレスのような服と無造作ながらも美しいロングヘアーは忘れられる物ではない。
「ゴードン。彼女は東洋人か?」
「そうだ。まだ検死の途中だが、それくらいは分かっている」
「そうか、なら彼女が少女連続転落死事件の犯人だ。私は一度、彼女の霊魂と交戦している」
「霊魂とだと? まさか、幽霊が犯人だったとでも? いやしかし、現にこうして彼女は自殺を……」
 ゴードンは事件を理解しきれていなかった。バットマンも同じだ。元々彼も、こういったオカルトな事件は得意としていない。オカルトの匂いを事前に察知し、現代最高峰の魔術師ザターナに相談していなければ、バットマンも混乱していたし、呪い殺されていたであろう。霊魂を掴まえられるようにスーツに細工をしてくれたのも、彼女ことザターナだ。
「とにかく。彼女の自殺で全ては終わった」
「自殺か。言わせてもらうが、それは違う。この写真を見てみろ。ひょっとしたら、この転落死事件は始まりにしかすぎないのかもしれないぞ」
 ゴードンが改めて出してきた写真は、今後の騒動を予感させる物であった。
 現場近くの監視カメラが偶然撮影した映像から抜き取った写真。巫条霧絵が落ちたビルの屋上に、複数の男女がいた。丈の短いジャケットを羽織った怪しい男に、シスター服らしき衣装を纏った少女。粒子の粗い映像から抜き取った物で、彼らの顔までは判別できない物の。二人を率いている男の顔は、粒子など関係なしに目立っていた。あの引きつった口は、そう簡単に誤魔化せない。
 男の名はジョーカー。只の人でありながら、最強と最凶と最狂を持ち合わせる最悪の男。巫条霧絵の背後には、かの道化王子の影が見え隠れしていた。

 既に数年前、巫条霧絵が日本で墜落死している事実をバットマンが知るのは後のことである。
 改めてバットマンに事情を聞いたザターナと、もう一人の魔術に精通したヒーローであるデーモンは、それぞれ別々にバットマンが協力を仰ぐべき人物の名を口にした。二人の口にした名は、奇しくも同じである。
 蒼崎橙子という、稀代の人形師の名を彼女らは口にした。