うかんじゅ

 昔一度、この家に来た時はもっと綺麗だった。こんな風に、庭が雑草で埋まっていたりはしないし、散水用の蛇口も錆びていなかった。
 駆けまわるのに不自由しない広い庭、今だけではなく数十年後のことも考えた間取りの邸宅、駅にも学校にもスーパーと生活に必要な物は徒歩圏内にある立地、たとえ主の人となりを知らずとも、家族への深い思いが伝わってくる家だ。
 かつてこの家に住んでいたのは父親と妻と息子、そしてペット一匹。今住んでいるのは、以前と同じ父親と同じペット、もとい父親と一匹の息子だ。
 ため息を隠さず、玄関の戸を開ける。中では既に、スタッフが忙しなく働いていた。作業服の人間が駆け回っているだけで、考えぬいて作られたファミリー住宅が、一気に非現実的なセットか何かに見えてくる。
「一階の調査終わりました」
 女性スタッフの一人が、声をかけてきた。
「ああ。そう」
「……」
 気のない返事を聞いた彼女は、少しだけ不機嫌そうな顔をしたまま動かなくなった。
「?」
「指示をお願いしたいのですが」
「ああ、そういえばそうだった」
 責任者は、今日から自分になったのだった。寝室に繋がるふすまを手荒く開ける。主の寝室に引かれた布団の上に、大きな卵が転がっていた。
「この卵、どうしますか?」
 かつての責任者、自分の上司でもあった男の卵を、彼女は汚物を見るような眼で見つめていた。
「いや。ちょっとこのままにしておいてくれ」
 家族が居る限り、自分が美少女の誘惑に転ぶことはない。息子が連れ去られ、妻が自殺して、残った犬を家族と思い込んでいた上司。
 ちなみに現在、犬は行方不明。このように、家族が行方しれずの状態で父親が美少女の誘いに乗るかと言われると……結構誘いに乗った事案が多いのはさて置いて。性欲を完全に家族愛に置き換えていた狂人がこの状況でなびくとは到底思えない。
 家の獣臭に、糞の状態から見て、犬が居なくなってから、そんなに時は経っていない。家族の長い不在から心身衰弱で魔が差す段階とは言えないだろう。
 いったい何故上司は、誘惑に負け卵になってしまったのか。それを知ることは、残されてしまった者の義務に思えた。

 この家に居るスタッフは、皆女性だ。無理もない、男は次々と美少女に拐かされ、卵となっている。女社会となっていくのは、当然と言えた。彼女達は、男を侮蔑している。もう、自分も辞めるか卵になるタイミングが来たのかもしれない。ハッキリ言って、御免だが。
 家中を周り、犬を探す途中。ふと軒先の、縁側の下に何かを発見した。付いてきていたスタッフを手で制し、自ら軒下に転がっていたモノを拾う。
「そうか、そういうことだったのか」
 人よりも小さいサイズ、ちょうど犬ぐらいの大きさの卵を手にし、全てを理解することが出来た。上司は、息子が美少女に連れて行かれたことで狂い始めた。彼はおそらく、目撃してしまったのだ。もう一度、息子と思っている存在が、卵となる光景を。三回目の喪失を経験した彼はおそらく正気を完全に失い、そこをつけこまれてしまった。
「なんで、ありえないですよ」
 理解した自分と違い、付いてきた女性スタッフは理解していなかった。
「ありえないって言っても、コレが現実だよ」
「じゃあ何ですか、美しいメス犬が、この家のペットを誘惑したとでも言うんですか。動物が拐かされる事例なんて聞いたことがありません」
「聞いたことがなくても、見てしまった以上、認めるしか無いだろう」
「だとしたら、しっかり研究した上で、上に報告しないと。動物が動物を誘惑した例なんて……」
「お前さ、まず落ち着け。いいか。メス犬が犬でなければいけない道理があるのかよ?」
 奴らは、男を連れて行く為ならばなんでもやる。そう言葉に付け加える。
 何かに気づいた彼女を背に、小さな卵を持って歩き出す。互いに気づいてしまった以上、彼女の顔を直視できなかったし、自らの顔を見せるつもりもなかった。いったい、どんな顔をしているのか。鏡が怖い。
 家の中に戻り、そっと卵を下に置く。人間大の卵の脇に、小さな卵が伴侶か親子のように寄り添っていた。